2013年3月17日日曜日

2013年3月17日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(115)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(112)
       内山 思考   読む

俳枕 江戸から東京へ(115)

日暮里(その1山手線・4)
根岸(上根岸88番地の家⑥)
文:山尾かづひろ 

左:妹・律、右:母・八重













都区次(とくじ): 明治25年、子規は東大に籍を置きつつ試用・見習いの形で新聞『日本』で時事俳句を作ったりと仕事をしていますが、現実の正岡家の家長としての子規はどうしてますか?

  母妹と同居を始む梅三分  小熊秀子

江戸璃(えどり):明治25年11月、子規の新聞『日本』の社員としての生活を支えるために母と妹を上京させて一家を構えたのだけれど、実家にあった武家の家禄奉還金も家を売った金も減り、同居したほうが経済的に得策であったのでしょうね。
都区次: ところで今日は「彼岸の入り」ですが、一家でどこかへ出掛けたでしょうかね?
江戸璃:「彼岸の入り」といえば子規の句に「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」というのがあるけれど、母親の言葉をそのまま俳句にしたそうよ。当時、一家で出掛けるとしたら浅草へ行ったでしょうね。母妹の着物も要るしね。日暮里からは歩いて行けたしね。

明治25年 浅草













古着屋の閉まる頃なり月朧  長屋璃子(ながやるりこ)
仲見世の一直線の彼岸入り  山尾かづひろ

 

尾鷲歳時記(112)

岡本武司さんのこと
内山思考 

人類はみんなレプリカ花嵐  思考

平成4年の朝日新聞より

平成元年から四年まで毎年一回大矢数俳諧に挑戦した。五年には、西鶴没後三百年ということでNHK大阪に呼ばれ、スタジオに設けられた席で小矢数(12時間)を実演した。演出のため、御典医の装束で側について下さった医師で俳人の島田一耕史先生も世を去られ、ゲストだった露の五郎師匠、お天気おじさん福井敏雄さんもその後鬼籍に入られた。思い返すと二十年の歳月の重さをあらためて実感する。

地元で大矢数を行った時はいろんな取材を受けたが、忘れられないのは朝日新聞の記者だった岡本武司さんである。カメラを肩に会場にやってきた髭面の岡本さんは、作務衣姿で筆をふるう僕を興味深い眼差しでじっと見ていた。話しかけたのは多分、僕の方だったかも知れない。即吟の調子が乗ってくると少々会話をしながらでも次の句は出来る。かえってその内容が材料になったりもするのだ。

二十四時間不眠不休、飲まず食わずとわかっているのに、いい匂いのする焼おにぎりを「食べなさい」と鼻先へ持ってくる親切?な記者もいたが、岡本さんには、酔狂な俳句作りに没頭する若造を面白がっている雰囲気が感じられ、その後も親しく話す機会が多かった。岡本さんの骨太で包容力のある人柄はとても信頼の置けるものだった。

岡本さんの著者(右)と
妻、一子さんの追想文集
しかしやがて岡本さんは転勤。それから何年かたったある日、書籍小包が届き、挿まれた手紙を読んで僕は驚いた。差出人は岡本さんの奥さんで、それには岡本さんが病死したこと、生前に書き残した原稿が友人たちの手によって一冊の本として出版されたことなど書かれてあったのだ。題名は「おれ にんげんたち(デルスー・ウザラーはどこに)」。 

尾鷲を去って間もなく岡本さんは退社し、ロシアで語学を学びながら探検家アルセニエフと、伝説の先住民デルスー・ウザラーの研究に打ち込んだのだという。今でもこの本を手に取ると、あのよく通る岡本さんの声が聞こえるような気がしてならない。