2014年8月17日日曜日

2014年8月17日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(189)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(186)

       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(189)

麻布十番(その1)
文:山尾かづひろ 

大法寺本堂









都区次(とくじ): 前回は浜松町駅の西側の瑠璃光寺でしたが、今日はどこですか?

大黒天鎧の姿秋暑し 熊谷彰子

江戸璃(えどり):今日は浜松町駅近くの都営地下鉄大門駅から大江戸線に乗って麻布十番まで行くのよ。やはり13年ほど前に大矢白星師に連れて行ってもらった大法寺へ行くわよ。
江戸璃:大法寺は日蓮宗の寺院で慶長2年11月(1597)、慈眼院日利上人によって創建されてね。享保15年(1730)、日舜上人(行脚僧)は法華経三万部読誦の功徳によって不思議な大黒天尊蔵を感得されたのね。この大黒天が 伝教大師作「三神具足大黒尊天」なのよ。「三神具足」というのは、ご尊像の姿が大黒天の小槌を持ち、弁財天の髪をいただき、背には毘沙門天の鎧をつけているところから、大黒天の福寿と弁財天の円満と毘沙門天の除災得幸を表しているそうよ。元々この大黒天像は、麻布六本木の旧家伊勢屋長左衛門の秘仏だったのね。ある夜、長左衛門の夢枕にこの大黒天が立ち、「我れ汝の家にあること久し、今法華経読誦の功徳により法華経守護の為め大衆に福寿を授けんことを誓い法華経読誦の地に往かん」と告げたそうなのね。翌朝、長左衛門が夢からさめて、この秘仏を拝もうとしたら、不思議なことに大黒天のお姿はなかったのよ。長左衛門は近隣に法華経読誦の地を捜し求め、一本松に日舜上人(行脚僧)の法華経三万部読誦を知り、また、不思議なことに我が家の秘仏の大黒天があることを知ったのね。長左衛門は日舜上人(行脚僧)に霊夢を語り、この大黒天を献納したのよ。大法寺の五世日亮上人 は、この大黒天の霊夢を得て大衆に福寿を授けることを誓い、日舜上人(行脚僧)よりこの大黒天を拝受し大法寺に奉安し大衆帰依の道を開いたそうよ。栄久山大法寺は江戸時代には赤門寺と呼ばれ、甲子の祭日 には縁日が盛んで賑わったそうで、地元では大法寺というより一本松の「大黒さま」として親しまれているそうよ。

鎧の大黒天













残る蚊に吸血の性おぞましき  長屋璃子
残る蚊に甲冑鎧ふ大黒天    山尾かづひろ

尾鷲歳時記(186)

出会い様々
内山思考

人生に当り外れや唐辛子  思考

説本堂前にて
青木上人と大賀ハス













還暦を過ぎてから「ああ人生ってこんな風に過ぎて行くんだな」とふと思ったりする。誰でもそうなのだろうか。別に悲観するわけでも、達観の境地に至ったわけでもない。ただそう思う。何か小事大事があるたびに「生きていればそんなこともあるやろな」と少し引いた気持ちになるのである。もちろん日常を送っていれば慌てふためいたり、ムカッとしたりもするが例えれば、皮膚一枚の内外を上手く使えるようになったということかも知れない。

でも、思い返すと数え切れない人々に今まで導いてもらったものだ。俳句にかんしては北さとり、和田悟朗両先生の名をあげたいがここでは俳句抜き、身内親類も抜き。そうするとまず三十歳で知り合った妙長寺住職、青木建斉上人のお顔が浮かぶ。お上人は七歳年上、ちょうど僕が俳句の魅力に取り付かれた頃からのお付き合いで、妙に浮き世離れしている男を面白がって下さったのか今も懇意にして頂いている。奥様は料理上手。だが一度も檀家になれと営業?された事はない。それもお人柄だろう。

四十代になってからは紀野一義先生だ。当時、恵子が体調を崩し始めたこともあり、何とも表現のしようがない焦燥感や不安感に苛まれていた僕に、青木上人は仏教者である紀野先生の講話テープを大量に貸して下さった。山口県生まれで、従軍中に家族を広島の原爆で失ったという紀野さんの話には悲哀を突き抜けた豪快さがあり、暇さえあればテープを聴きまくった僕は心身が蘇るような気がしたものだ。

人生はよきひととの出会いで始まる
紀野先生のサイン入り本
一度、留守中にお電話を下さったことがある。「だーいじょうぶ!貴女みたいな元気な声の人は死にゃしない。」と励まして下さったと恵子に聞いた時、僕は涙が出るほど感激した。そして言葉には本当に魂を救う力があると実感したのである。今年の正月、沖縄のアパート近くのマーケットで買い物をしている時、知人からメールが入り年末に紀野一義先生が長寿を全うされたことを知った。