2015年3月15日日曜日

2015年3月15日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(219)
       山尾かづひろ  読む

■ 
尾鷲歳時記(216)
       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(219)

湯島界隈(その3)
文:山尾かづひろ 


麟祥院本堂









江戸璃(えどり):彼岸の入りが三日先だけど、この時期は寒い日があったりするのよね。

佐保姫のいづくに隠れ局墓所  野木桃花

都区次: 前回は無縁坂でした。今回はどこへ案内してくれますか?

お局の穴明く墓石春の昼  畑中あや子

江戸璃:先月は大矢白星師に不忍池を起点に湯島界隈を案内してもらってね、今回はそのコースをトレースするということで、三番目の麟祥院(りんしょういん)へ行くわよ。無縁坂の坂上から旧岩崎邸に沿って左折、やがて春日通りへ飛び出すのよ。左へゆるやかに下っているでしょ。これが切通坂よ。切通しとは台地を切り開いてつけた坂道の通称でね、東京には同じ名の坂が幾つもあるけれど、一番古いのがこの湯島切通坂なのよ。切通しとは反対方向へしばらく行くと、麟祥院へ達するのよ。麟祥院は、もともとは春日局が出家して暮した庵で、寺号は春日局の法名なのよ。その墓は「死して後も天下の政道を見守り之を直していかれるよう黄泉(よみ)から見通せる墓を」という遺言で墓石に四方から丸い穴が開けられ向うが見える珍しいものなのよ。局の出世につれて父方の斎藤家も復活、前夫方の稲葉家の人々も大名となったのよ。局を取り巻くそれらの人々の墓も周辺に見られるわよ。いずれにしても春日局は家光が将軍になった後に引退して仏門に入り、寛永20年(1643)、65歳で没したのね。そして自らが開基となったこの寺に手厚く葬られたというわけ。

勝海舟ゆかりの菓子舗浅き春  窪田サチ子

江戸璃:春日通りを渡った麟祥院の向かい側の和菓子屋の壺屋総本店で「壺々最中」を買いたいから付き合ってよ。この店は寛永年間に町民が開いた最初の「江戸根元」菓子店で、以後三百八十年間の間市民に愛されてきたそうよ。明治維新の際には「長い間徳川様にお世話になったのだから」と大店がつぎつぎとやめていった時に勝海舟から「市民が壺屋の菓子を食べたいと言っているから続けるように」と言われ店を再開し、暖簾が残ることになったそうよ。
都区次:いま言った中の「江戸根元」とは何ですか?
江戸璃:江戸幕府の創設に伴い、関西から関東へ移ってきた店ばかりの時代、江戸の町民が開いた店のことよ。

春日局の暮











お局の墓のあたりの遅春かな 長屋璃子
お局の娑婆を見る穴桃の花  山尾かづひろ

尾鷲歳時記(216)

太陽の話
内山思考

2・23(にいにいさん)の素数を得たり和田悟朗   思考

一昨年の奈良吟行で












 「ぼくは素数に関する本を見つけたら必ず買うんだ」と和田さんが言った。この間も新潮文庫の「素数の音楽」というのがあってね、の言葉が終わらない内に「あ、僕それ読みました」と思考が口を挟んだ。「そう、読んだの?」和田さんが微笑む。「でも先生、読んだのと理解したというのはまた別ですから」「ま、そらそうや、ハハハ」。思考もニッコリする。和田さんが自分のジョークで笑ってくれるのを彼は無上の喜びとしているのだ。

この会話は2013年12月15日の風来句会のあとのもの。俳人であるとともに科学者でもあった和田さんは、宇宙を構築する時間空間と同じように、ミステリアスな数の世界にも興味を持っていたようだ。「89歳の次は97歳まで素数がないんや」とも言った。「先生、沖縄はね、97歳で風車祝(カジマヤー)っていう長寿祝いをするんです。それまでいてくださいよ、盛大にお祝いしますから、東京五輪も一緒に行きましょう」「うーん(笑)行けるかなあ」などと話していたのに、1923年6月18日生まれの和田悟朗さんは2015年2月23日に91歳で宇宙へ帰って行った。

俳人としての見事な業績はこれからも語り継がれて行くだろう。誇らしいことだ。時間をたっぷり使って、もっともっとたくさんの作品を残していって欲しかったという気持ちがもちろんないわけでは無いけれど、風来のみんなと一緒にいるときの和田さんは、最後まで本当に幸せそうだった。楽しそうだった。

和田さん曰く
「太った子規」
機械だったら生産ばかりしていれば良いだろうが、人間はそうはいかない。和田さんがほぼ晩年まで自分のペースで作句していたのは側にいたから知っている。苦行のようにノルマのように一心不乱に作り続けても、どこかにゆとりが無ければ空虚であろう。大矢数を何度となくやったから僕にはよくわかる。個性ある風来人たちが集まったのも、人間和田悟朗が損得なく誰をも照らす明るい太陽だったからである。