2014年4月20日日曜日

2014年4月20日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(172)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(169)

       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(172)

山手線・田町(その3)
文:山尾かづひろ 


慈眼寺山門











都区次(とくじ):前回は三田台地の宝生院でしたが、今日はどこへ案内してくれますか?

今も寺あまたなる土地花は葉に 吉田ゆり


江戸璃(えどり):やはり大矢白星師に案内してもらった三田台地の慈眼寺へ行くわよ。普門山慈眼寺の歴史は、今からおよそ400年前の文禄ニ年(1593)2月、時代は安土・桃山時代の後期。徳川家康が江戸城に入って3年目、関ケ原の合戦の7年前にあたるけれど、江戸の八丁堀に、大室芬撮 という和尚が1カ寺を建立してね。そして、当時、高徳の僧として知られていた玉翁芳轉を招き、曹洞宗の寺として正式にひらいたのが、慈眼寺のはじまりなのね。慈眼寺がひらかれた八丁掘は、慶長16年(1611)、神田北寺町や芝西久保とともに、幕府によって寺区(寺院地域)に指定されたのよ。その後、幕府による江戸城の拡張計画にともなって、先に寺区に指定された八丁堀の寺院は、三田、下谷などの特定の地域への移転を命じられたのね。このため慈眼寺も、寛永十二年(1635)、開創から42年目にして、現在地を拝領して移転したのよ。幕府による江戸城拡張は、結果的には江戸周辺の開発をうながすことにもなり、三田村の発展とともに、慈眼寺の壇信徒も増えてきたのね。本尊、観世音菩薩の慈悲を求めて、多くの人びとが慈眼寺を信仰のよりどころとしたのよ。また庭先には古い半跏思惟像があるわよ。

都区次:日が暮れてきましたが今日はどこへ行きますか?
江戸璃:今日は春闌だったわね。慶応仲通りのイタリアン居酒屋のボルコロッソでスパークリングワインを飲みたくなっちゃった。
都区次:いいですね。行きましょう。


半跏思惟像













振り返る山門あたり蝶の現れ 長屋 璃子

風化せし半跏思惟像花の塵  山尾かづひろ

尾鷲歳時記(169)

熊野うららか紀伊のどか 
内山思考

日を弾く虻のアドリブ朝のジャズ     思考

虻も喜ぶ内山家の庭














暑くなく寒くなく誠にいい気候である。桜は終わってしまったけれど、ここからがもっとも野山の清らかな姿が楽しめる時期である。世の人が花じゃ花じゃと美人に浮かれている内に、その裏側では鄙にすむ女の子がいつの間にか娘らしくなって、ついでに土臭い餓鬼どもも男の眉を持つ、と言った風情だろうか。

毎年今頃、自宅の間近に立つ天狗倉山(てんぐらさん)の肌に、若い芽や葉がグイグイ盛り上がって来るのを見上げては、ああ、生きているって素晴らしいなと微笑んだりするのは、悪くない習慣である。飽きずに陽気が続くので、庭のみやま霧島と牡丹が飛び出すように咲いた。早速恵子に写メールで送る。すぐ返事が来た。「凄い、二つ咲いたんやね、霧島もええね」の言葉の間に絵文字花文字が一杯で愉快だ。そして慶事あり、谷口智行さんから新刊の著書が届いたのだ。「熊野、魂の系譜」である。副題に(歌びとたちに描かれた熊野)とあるように、この書は地元出身で俳人でもある谷口さんが、霊地熊野に関わりを持った文人たちの筆業を通し、自らの考察を加えることで固有の風土への畏敬と愛着を著した渾身の成果である。
谷口さんの著書
一章の総論で熊野に触れた古今の書を紐解き、二章では前 登志夫から三島由紀夫にいたる13名の作中の熊野との縁に触れ、三章ははまゆう、たちばな、舟、の海山河川に由来する物から景色を広げる。そして四章において故郷喪失者論、立原道造論を述べた後、新宮が生んだ作家中上健次について熱く語るのである。

年齢が一回り違う中上氏が仕事場に使っていた湯川の旅館で、何度か顔を合わせた経験があるというエピソードも語られている。「本書をご覧頂く際、ページを捲ってふっと触れくる熊野の気、ひょいと顔を覗かせる歌びとたちの魂を感じてもらえれば幸いです」跋文にある通り、確かに古来の大気が行間から漂うようである。僕にはこの一冊がそのままパワースポットだと感じられた。