2015年3月1日日曜日

2015年3月1日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(217)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(214)

       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(217)

湯島界隈(その1)
文:山尾かづひろ 
挿絵:矢野さとし

不忍池弁天堂




















都区次(とくじ):3月に入っただけで気分が春らしくなりますね。
江戸璃(えどり):私は野焼が始まると春だと思うのよ。

原罪は消ゆることなし野火盛る  赤崎ゆういち

都区次: 前回は兜神社でした。今回はどこへ案内してくれますか?

春奏づ弁財天の琵琶高音  熊谷彰子

江戸璃:先月は大矢白星師に湯島界隈を案内してもらってね、今回はそのコースをトレースするということで、スタート地点の上野の不忍池へ行くわよ。ここの鴨も帰るか残るか決めるのでしょうね。

朽ち蓮の池の奥より残り鴨  戸田喜久子

江戸璃:不忍池辺り一帯は縄文時代ごろ東京湾の入江だったそうよ。その後の海岸線の後退とともに取り残されて、紀元数世紀ごろ池になったと考えられているのね。江戸城の鬼門除けとして寛永寺が上野に建立されると、京都の鬼門(北東)を守る比叡山に対して、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」としたのよ。開祖である天海僧正は東の比叡山にも、琵琶湖がなくてはならない、とばかりに不忍池を琵琶湖と見立て、竹生島(ちくぶしま)になぞらえて弁天島を築かせて弁天堂を造ったのよ。私は40年ほど前にも大矢白星師に弁天島へ連れてきてもらったのだけれど弁天島には北側に付随している聖天島という小さい島があってね、今は立ち入り禁止になっているけれど、当時は弁天堂の社務所で鍵を借りて中に入れたのよ。弁天島にはめがね塚、ふぐ供養碑、琵琶の碑など珍しいものが多いのだけれど、聖天島には更に珍しいものがあると大矢白星師が案内してくれてね、島へ渡る小橋は享和3年(1803)に造られたままのものなのよ。有名なのは番いの鶏を線彫りにした碑で、原図は江戸中期に活躍した鳥居派の浮世絵師の鳥居清忠作で、明治40年に宮戸座座主が建てたものだそうなのよ。浅草に詳しい戸田喜久子さんのお話しでは、宮戸座は浅草にあった芝居小屋とのことだったわね。更に有名なのが役行者像(えんのぎょうじゃぞう)だとして白星師は年長の私にだけに向かって、この像は背後から見ると男性性器の形になっていると解説してくれたのよ。地方によくあるアレよね。当時の私も若い女の子ではなかったけれど返答に窮しちゃったわよ。

役行者の表裏











鳥帰る空の下なる一堂宇      長屋璃子
引き鴨の向きを同じに知らぬ顔   山尾かづひろ

尾鷲歳時記(214)

サヨナラは言わない 
内山思考 

春雨の那覇にも教え子が一人  思考

今年頂いた賀状①と②









僕が「俳人、和田悟朗」を知ったのは平成二年のこと、戦前戦後に祖父が所属していた「大樹(昨年終刊)」に入会させて貰って、結社集会のあとだったかに先輩方と喫茶店で雑談をしている時だった。

春の家裏から押せば倒れけり

の一句が皆の話題だった。作者は奈良女子大の名誉教授だという。隅の方で小さくなって耳を傾ける新入りの僕に、それはどこか遠い世界の話のような気がした。翌年の秋、子規の存在した空間を歩こうと松山へ一人旅をして書店に入ると、「俳句と自然」という本を見つけた。

著者、和田悟朗の名に見覚えあり。冒頭に置かれた「春めくや物言う蛋白質に過ぎず・菟原逸朗」も面白いと思い購入した。ちょうど接近中の台風に追われるように1日予定を早め、帰りの電車に揺られつつ読んだゴロウ文の明解さに、僕は忽ち魅了された。内容に応じて、自作もさり気なく添えられる。

太古より墜ちたる雉子(きぎす)歩むなり  悟朗

ああ、この四次元感覚は何なのだ。和田悟朗ってどんな人なのだろう、会ってみたい。僕の胸に強硬堅牢な学者俳人のイメージが出来上がった。最初に会ったのはそのまた翌年、現俳協の大阪大会である。式典が始まったのに先生方の中の「和田悟朗」の名札のところだけ空席だ。今日は会えないのか、と落胆していると、会場の後方から、ショルダーバッグを提げたノーネクタイの男性が静かに現れ、件の席に腰掛けた。

近所のガジュマル、
恵子も随分元気に
司会が「和田先生が到着されました」と言うと万雷の拍手が湧き、どうも、と先生は微笑んだ。あれから20数年の歳月が流れ、今僕は、那覇のアパートで和田悟朗先生を偲んでいる。花谷清さんが告別式の模様を知らせて下さったので、お通夜もその日も出席出来ず、先生にも同人の皆さんにも申し訳無い、とメールすると、折り返し「葬儀参列の可否と、和田先生を理解し慕う気持ちは別です」との返事。文面を見ている内に、堪えていた涙が一度に溢れ出した。