2012年6月24日日曜日

2012年6月24日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(77)
        山尾かづひろ 読む

■ 尾鷲歳時記(74)
        内山 思考  読む

■ 私のジャズ(77)        
        松澤 龍一  読む

俳枕 江戸から東京へ(77)

田町駅西口(その3)
文:山尾かづひろ 

御穂鹿島神社













都区次(とくじ): 前回の「西郷・勝の会見の場所」は薩摩藩の蔵屋敷ということでしたが、この「蔵屋敷」とはどいう意味ですか?
江戸璃(えどり): 江戸時代に諸大名が貨幣入手の必要から領内の米穀と物産を貯蔵・販売するための屋敷だったのよ。倉と販売事務所を兼ねていたのよ。品物は船で運んだから薩摩藩の場合は江戸湾に面していたわね。
都区次: 現在では埋立が進んだのか、まったく湾が見えませんが、それと分るような物は残ってますか?
江戸璃: 会見碑を右に曲って突き当たったところに御穂鹿島神社(みほかしまじんじゃ)
があるのでそこへ行ってみましょう。寛永年間(1624~44)のある時、一つの祠が流れ着いてね、中を見ると一本の御幣があったけれど、海上を漂ってきたのに少しも濡れていなかったのね、そこで村人たちは、この祠を海辺に安置したのよ。その後、その祠は常陸(ひたち)の鹿島神宮の境内に祀られていたことが分り、元の場所へ祀られたのね。ところが再び流れ出して同じ場所に流れ着き、「この浦に鎮まり坐すべし」と託宣があったために、この地に祀るようになったのが鹿島神社なのよ。平成18年に近くの御穂神社を合祀して御穂鹿島神社という新社殿になったのよ。江戸時代、この辺に魚市場があって落語の「芝浜」はここの噺なのよ。


鹿島神宮










「芝浜」を聴きしはいつぞ南吹く 長屋璃子(ながやるりこ)
黒南風や社の鈴の籠り鳴る 山尾かづひろ

尾鷲歳時記(74)

ほんの半世紀
内山思考


時は金泥空は銀泥燕子花  思考

アサヒグラフ昭和35年当時は70円











六月にしては珍しく上陸した台風が去り、また元の梅雨ごもりである。 昨夜は炭を窯から取り出す「かまだし」作業があったので帰宅は深夜2時、空腹を堪えて入浴就寝、しかし高熱の肉体労働の後はなかなか寝付かれず、しばらくテレビを無音で(隣で妻が寝ている)見る。モデルの押切もえさんが老舗旅館の仲居を実際に体験するという番組の再放送で、内容も面白かったがやはり素人さんに混じると彼女の美しさが際立つことに感心・・・しつつ、いつの間にか熟睡。

朝、家族はそれぞれ仕事に出掛けて、自分はゆっくり寝ていたかったが、今日も幾つかのノルマを果たさねばならず、まず額装用の俳句を書くことから始めた。昨夜、大樹主宰から「思考さん、大樹展の作品まだよ、健斉さんのもね」と催促があったのだ。朦朧とした心身を励ましながら紙と筆と墨を用意。畳を汚さぬよう新聞紙を敷いた上で「口中に汐の満ちたる海雲かな 思考」を書いて落款を押す。青木健斉上人の分は頂いたのが沢山あるので、その中から「蟻たちは人に聞かれぬよう話す 健斉」を選ぶ。簡単な手紙と共に雨の中、郵便局へ。これで一つ完了。

次はこのコラムだ。さっき本棚の一番上から半紙を降ろすとき古い「アサヒグラフ」が数冊、埃を被っていたのを見つけたのでそれを眺める。熱いコーヒーも啜る。発行された1960(昭35)年と言えば僕が小学一年の頃だ。僕は自分の少年時代の世相風俗にとても興味があって古本市があると関連した雑誌を探す。そして大抵それは売れ残っているものだ。

昭和30年の(なかよし)、
安田章子ちゃんて今の誰?

ダイハツのミゼット、東芝の家電品、カメラのオリンパスペン、などは当時のメカニズムの最先端。ジャズ・ピアニストの秋吉敏子さんは31才、バレエの新星、森下洋子ちゃんは12才と皆さん輝いている。特集も豊富だ。「(もう)七羽前後しかいないトキの保護を訴える野鳥クラブの少年」や「ノリの漁場を工業用地として売却し、年間収入の十年分もの補償金を貰って笑いが止まらない漁民たち」など、その後の顛末をしっているだけに読んでいてちょっと複雑な気持ちになった。

私のジャズ(77)

ハーレム、ニューヨーク
松澤 龍一

THE POPULAR DUKE ELINGTON
 (RCA BVCJ-7342)












ニューヨークに初めて仕事で行ったのは、35年も前のこと。当時、治安は最悪で、ニューヨークでは絶対に一人歩きをしてはいけないと何回も言われた。どうしても一人で歩かなければならない時は、生命保険のつもりで、胸ポケットに百ドル札一枚を入れておくように言われた。

なぜ胸ポケットなのか、なぜ百ドルなのか。先ずホールド・アップをされたら、上げたままの手で、胸のポケットを指さすこと、間違ってもズボンのポケットから財布を取り出そうとしてはいけない。銃を取り出すのかと勘違いされて撃たれる。百ドル以下の低額のお金だと相手が頭にきて撃つ。命が百ドルなら安いものだと思った。この習慣はニューヨークに限らず、アメリカの大都市を歩く時はしばらく励行していた。今にして思うに、ちょっと大げさだった。

ハーレム、言わずと知れたニューヨークのマンハッタン島の北部にあるアフリカ系アメリカ人の居住地区である。絶対に行ってはいけないところと言われた。足を踏み入れたら生きては帰れないとまで言われた。でも、そんな怖いところなら一度は覗いてみたいと思うのは観光客に限らずアメリカ人とて同じこと。そんなアメリカ人、特に白人を 対象にハーレムに作られたのがコットン・クラブと言う高級ナイトクラブである。客はすべて白人、ショーを行うのはすべて黒人で、音楽、舞踏を中心に黒人芸能のショー・ケースと言ったところ。なにやら吉原にある松葉屋の花魁ショーを思わせる。

このコットン・クラブを根城に長く音楽活動を続けた音楽家がいる。ピアニストで作曲家のデューク・エリントンと、彼が「私の楽器」と呼んだデューク・エリントン楽団である。デューク、男爵とあだ名される品の良さ、タキシードが似合ういでたちなど、彼がこの高級ナイト・クラブの専属として長く音楽活動を続けてきたあかしと言えよう。

デューク・エリントン楽団は多くのスター・プレーヤーを輩出した。その中でも出色の一人がアルト・サックスのジョニー・ホッジスである。これだけのスターでありながら、不思議と楽団を離れてソリストとして独立するとか、自分の楽団を持つとかと言ったことはせず、彼の音楽生活のほとんどすべてをデューク・エリントン楽団で過ごした。デューク・エリントンのマネージメントが良かったのか、あるいはコットン・クラブと言う定職がよっぽどおいしい仕事だったのか。ともかく、この二人はコットン・クラブと言う安定した職場で、ジャズに、黒人の文化に大きな貢献をしたことだけは間違いない。