2013年7月21日日曜日

2013年7月21日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(133)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(130)
       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(133)

山手線・日暮里(その33)
根岸(上根岸82番地の家⑱「子規庵」)
文:山尾かづひろ 

和田岬灯台














都区次(とくじ): 子規は軍の従軍記者に対する処遇の悪さから帰国を決意しましたが、周りの反対を押し切って従軍記者として日本を出国したわけですから、帰国するとなったらハッキリした理由が必要と思うのですが、喀血でもしたのですか?
江戸璃(えどり): 確かに帰国途上で喀血するのだけれど、喀血は帰国途上の船上なのよね。だから新聞『日本』への帰国の理由は事前なので「軍の従軍記者に対する処遇の悪さ」という事でしょうね。

結核の悪化する子規夏の航 冠城喜代子

都区次:帰国途上の船上で喀血という事ですが、どうしたのですか?
江戸璃: 「軍の従軍記者に対する処遇の悪さ」は子規の身体に相当のダメージを与えていたのは確かでね、明治28年5月14日、大連港を出港した佐渡国丸という船に子規は乗っていたのよ。この頃には子規の身体は相当に弱っていたのでしょうね。疲れを感じて下等室で寝ていると、記者仲間が正岡! 鱶(ふか)が居る!早く見にこいよと呼ぶので、はね起きて急ぎ甲板へ上り着くと同時に痰が出てきて、船端の水の流れている所に吐くと血だったのよ。
都区次: 船医は居たのですか?
江戸璃:医者らしい者は居たのだけれど、コレラの薬は持っていても結核の薬は持っていなっかったので、子規は自分の行李から結核の薬を取り出して、袋のまま外套のポケットに入れて、自分の座に帰って静かに寝ている外になかったのよ。
都区次:こういう状況では、早く上陸して、ちゃんとした病院へ行きたいですね。
江戸璃:それがね5月18日、午後、馬関(下関)に着いたけれどコレラ患者が発生したことを理由にすぐに下ろしてもらえない。5月21日の夕方、神戸の和田岬の検疫所に行くことが決まり、翌日の午後には到着したが、なかなか下ろしてもらえない。ようやく23日の午後になって赦免されたが、そのときの子規の身体は極度に弱っていたのよ。子規は歩くこともできず、人力車にも乗れない状態で、記者仲間の手で釣台に乗せられて神戸病院へ担ぎ込まれたのよ。入院後も喀血は止まらず、一週間後には危篤状態になってね。病状を気遣った新聞『日本』の社長・陸羯南(くがかつなん)が京都にいた高浜虚子に連絡して、病状を見舞に行かせているわよ。6月4日には危篤の電報に接して母親と碧梧桐が東京から見舞に来たのよ。結局、神戸病院での療養は2ヶ月に及んだのよ。
都区次:ところで今日は日暮里からどこへ行きますか?
江戸璃:もう海もすいているから、江ノ島で土用波を見ながら白子丼(しらすどん)でも食べない?

土用波











血が騒ぐほどにもあらず凌霄花  長屋璃子(ながやるりこ)
土用波鉄の匂ひの廃汽船     山尾かづひろ

尾鷲歳時記(130)



入道に会う
内山思考

飛行音眼下の神戸暑に沈む  思考 

ひこうき雲・久高島


















神戸発沖縄行きの飛行機は結構空いていた。連休明けだし、夕方のフライトだから観光客も少なかったのだと思う。窓際の席でゆっくり地上の風景を眺めながら思索を楽しもうと考えていたら、西日がまともに差し込んで眩しくて仕方がない。それでも、読書したり眠ったりするのは勿体無いので、窓を半分閉め目を細めながら、外を見続けていた。

僕たちの飛行機は低気圧の上を飛んでいるので、いつもは見上げてばかりいる積乱雲を見下ろすかたちになり、その風景はまさに圧巻。ノッソリ、ノッソリ、ノッソリと突っ立ってこちらを見ている無数の大小の入道たち。その背丈といったらいったい、ほんとうに一体、どれぐらいあるのだろう。彼らの足元は一面雲の絨毯で、ところどころの綴れに夕日が差し込み、暗い大地の河川を流れる水がまるで溶けた鉄のように、あるいは、黄金のように輝いている。

ああ、綺麗だなあ、地球規模の自然の営みを目の当たりにして、僕は感嘆するばかりだった。そろそろ九州の南端かな、桜島はどこかなと目を凝らすがどうも雲の夏布団をすっぽりとかぶっているようだ。一カ所他と違った色の雲が棚引いているところがあったから多分それが桜島の煙だったのではないだろうか。ちょっと目を休めよう、と機内に視線を戻すと隣の席の妻はよく寝ている。

通路の向こうのCAのお姉さんと目が合う。微笑んでくれて少し照れる。再び窓外に注目すると、雲の切れ間に黒い三角形の影が見えた。「開聞岳だ」僕は思わず呟いた。第二次大戦中、知覧の飛行場から飛び立った特攻機は、この山を見ながら死地となる洋上へ向かったのだという。
影・久高島

戦後、特攻隊員だった友人を偲んで知覧を訪れた時の話を僕は和田悟朗さんからうかがったことがある。「飛行場の後は広くて何も無くてね。開聞岳を見ながら彼はここから飛んでいったのか、と」 それから68年後の開聞岳の上空を、僕の乗った飛行機は沖縄へとなおも跳び続けた。