2012年1月9日月曜日

2012年1月8日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(53)
        山尾かづひろ 読む

■ 尾鷲歳時記(50)                          
        内山  思考  読む

■ 私のジャズ(53)          
        松澤 龍一  読む

俳枕 江戸から東京へ(53)

隅田川東岸/弘福寺 
文 : 山尾かづひろ 

弘福寺










都区次(とくじ): 三囲神社の次は布袋尊の弘福寺ですね。
江戸璃(えどり): いったん墨堤通りに出て今日の隅田川の様子を見てみましょう。

上げ潮の及ぶ大川都鳥  大矢白星

それでは墨堤通りと水戸街道に挟まれた「見番(けんばん)通り」を歩いて弘福寺へ行くわよ。元々このあたりは置屋、料理屋、待合の花街三業種の営業が許可された三業地と呼ばれるところだったのよ。昭和61年に、芸妓組合、料亭組合、料理店組合が合併して見番(向嶋墨堤組合)となったそうよ。

鉢小菊咲かせ下町路地住まひ  品田秀風

都区次: 変わった山門が見えてきましたが、あれが弘福寺ですか?
江戸璃: そうなのよ。弘福寺は黄檗宗(おうばくしゅう)の大本山・宇治の黄檗山万福寺の末寺でね。黄檗宗は禅宗の中でも最も中国に近い宗派なのね、そのために建物は中国風の特徴が多いのよね。この山門も想像上の動物・摩伽羅(まから)を両端に置いた二重屋根が特徴なのよ。
都区次:弘福寺の由来は何ですか?
江戸璃:弘福寺は隅田村森島にあったものを、延宝2年(1674)第4代将軍家綱が遊猟の途たちより、寺も住職も気に入って、現在の地を賜って、それで弘福寺はこの地へ移ってきたのよ。
都区次: その住職は名の有った僧だったのですか?
江戸璃: 我が国の黄檗宗を大成させた鉄牛(てつぎゅう)和尚という僧で有名だったらしいわよ。小田原藩主の稲葉正則が帰依していて開山につくしたそうよ。この稲葉正則は春日局の孫で、弘福寺には春日局の内掛け姿の立像があったそうなのよ、一般に参拝させたという事実に間違いはないけれど、戦前・戦後を通して話題になってないから関東大震災で中国風の豪華な七堂伽藍もろとも燃えちゃったのでしょうね。今の諸堂は昭和8年に再建されたものなのよ。昔から残っているものは「咳の爺婆」の石像で、咳どめにご利益があるそうよ。

弘福寺の山門













大らかに人日映す隅田川  長屋璃子(ながやるりこ)
福寿草屋根に出されて舫ひ船  山尾かづひろ

尾鷲歳時記(50)

雪娘
内山思考


善人に疲れて風邪の薬呑む  思考

同じ三重県でも、北部の桑名は
雪がよく降る(姉の家の玄関先)













雨のよく降る尾鷲だが、雪はあまり降らない。たまに明け方、うっすらと積もっていても、陽が差せばすぐ解けてしまう。 そこで、こんな物語。


-むかし、大台の深い山の奥に「雪娘」が棲んでいました。ある吹雪の日、彼女が歌いながら風と遊んでいると、人間に出会いました。いつもなら雪娘は、幻を見せ空耳を聞かせ、もっともっと森の中へ誘い入れて凍えさせたり、時には谷から落としてしまうことさへあるのです。 今度も、退屈しのぎにそうしてしまおう、と風に隠れて近づくと、なんと、雪よりも白い息を吐き頬を赤く染めているのは、見たこともない美しい少年ではありませんか。 雪娘は、驚いた拍子に、思わず姿を現わしてしまいました。

「あっ、君は誰?」「…どこへ行くの?」
「尾鷲へ帰りたいんだけど道に迷って」
「…それなら道が違うわ」

雪娘は、街道への近道を教えてやりました。

「ありがとう、俺は新吉、君は?」
「…ユキ」

さあ、それから明けても暮れても彼女の心の中は新吉のことばかり。老いた狼が言いました。 「ユキよ、それは恋という恐ろしい病だ」 それでも、仕方なく狼は新吉と会う方法を教えてくれました。「いいか、今夜、大雪が降る。その雪を辿って尾鷲まで行け。けれども、日の出前に帰って来ないとお前は消えてしまうぞ」

喜んだ雪娘は風に乗って舞い上がりました。 ところが、急いで急いで、やっと尾鷲が見えた時、辺りは白み始めていたのです。 解けていく雪を伝いながら、雪娘は必死に新吉の家を尋ね歩きましたが、もう太陽が海から顔を出そうとしています。

「新吉さん…」 昨夜、遅くまで仕事をしたせいで寝坊した新吉は、誰かが呼んだような気がしてガタピシと戸を開けました。でも誰もいません。遠く大台の山々は雪化粧をしています。

「ああ、綺麗だな」 そして、足元に少しだけ残っている雪に気づくとそれを拾い上げました。小さな雪の塊は新吉の手のひらで解け、涙のように滴り落ちました。

おしまい。

寒椿を思わせる爪楊枝入れ

私のジャズ(53)

ジャズ史上最後の天才、トニー・ウィリアムス
松澤 龍一












二十歳になるかならないかで、マイルス・デイビスのバンドのドラマーとして抜擢されたトニー・ウィリアムス、ジャズ史上の最後の天才である。それまで無名であった彼を見出したマイルスの慧眼も素晴らしい。彼を得て、マイルスは大きな飛躍を遂げる。

ジャズ・プレーヤーとして最後の華を咲かせる。「フォー・アンド・モア」、「マイ・ファニー・バレンタイン」、「イン・ベルリン」、「イン・トーキョー」などのライブの名盤を次々と発表する。急テンポのドラムに触発されて、バリバリ吹きまくるくマイルス、それに絡んでくるトニー・ウィリアムスの自由奔放なドラミング、スリリングな演奏でまさにジャズの醍醐味を味あわせてくれる。

他のメンバーもハービー・ハンコック(ピアノ)、ロン・カーター(ベース)、ジョージ・コールマン、ウエイン・ショーター、あるいはサム・リバース(テナーサックス)と、みんな一流揃いであるが彼らの影が霞んでしまう。この時期のマイルスのバンドはまさにトニー・ウィリアムスとマイルスを聴くべきものであった。

その後、マイルスは変貌する。エレクトリック化(楽器の電気化)とロックに走る。このマイルスの変貌とジョン・コルトレーンのフリー・ジャズへの傾倒によって、ジャズと言う音楽はその終焉をむかえる...と私は思う。そう思うと、トニー・ウィリアムスはジャズ史上の最後の天才だったし、マイルスとのコラボレーションは100年近いジャズの歴史の最後に咲いた大輪の華だったのかもしれない。

トニー・ウィリアムスのドラム・ソロ、聴かせますね。