2015年1月11日日曜日

2015年1月11日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(210)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(207)

       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(210)

人形町(その2)
文:山尾かづひろ 


吉田松陰終焉の地









都区次(とくじ):強烈な寒さですね。
江戸璃(えどり):寒中ですもの。これ位の寒さでないとね。

一と山に盛られ買はれて寒卵  佐藤佳子

都区次: 前回は大安楽寺でしたが、今回はどこへ案内してくれますか?

寒晴れの吉田松陰碑凛として  熊谷彰子

江戸璃:十思公園(じっしこうえん)よ。今回も大矢白星師に12年ほど前に案内して貰ったコースを同じ説明をして歩こうというわけ。前回も少し触れたけれど十思公園は伝馬町牢屋敷の跡でね。片隅に「吉田松陰終焉の地」の碑と辞世の「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」を刻んだ碑が並び立ってるのよ。吉田松陰は故郷の山口県萩市に松下村塾を開いて、高杉晋作や伊藤博文など、明治維新に活躍した人材を育てたけれど、井伊直弼の安政の大獄で伝馬町牢につながれ、安政6年(1859)享年30歳で刑死したのは惜しまれるわね。
都区次:公園の一角に鐘がありますが何ですか?
江戸璃:「石町時の鐘」と言って、江戸市民に時刻を知らせた鐘の一つが残されているのよ。この鐘は本石町(現在の室町4丁目)にあったもので、都指定有形文化財になっているのよ。江戸時代の「時の鐘」は最初江戸城に置かれていたのね。その後、徳川秀忠の頃、寛永3年(1626)に時の鐘を辻源七が本石町3丁目(現在の日本橋本町4丁目)に移し、鐘楼堂を建てたのよ。その後、宝永7年(1710)に起こった火災で鐘楼などが焼失し、現在の時の鐘は宝永8年(1711)に作られた物なのよ。高さは1.7メートルで口径は93cmですって。また時の鐘は寺社の鐘と違い、公費で運営していたので、時の鐘が聞こえる約四百町(初めは三百町ほど)の範囲から鐘撞き料(町人は間口一間につき四文)を徴収していたそうよ。鐘を鳴らす基準となる時間は、江戸城からの太鼓の音を基準にしていたそうね。また与謝蕪村は時の鐘の近くに住んでいたそうよ。明治初期に時の鐘は廃止され、昭和5年に鐘が十思公園に移されたそうよ。現在の鐘楼は鉄筋コンクリート造りなのよ。また、現在は大晦日のみ鐘が撞かれているそうよ。


時の鐘










悴める刑余の人の行きどころ  長屋璃子
悴みて鳩の一匹寄り来たる   山尾かづひろ

尾鷲歳時記(207)

ウチナー(沖縄)散歩
内山思考 

風神の眠らざる街寒に入る   思考

中央の白い建物が
那覇の我が家














沖縄住まいを始めて二十日ほどになった。年末年始は人混みを避けてあまり出歩かなかったので、僕と恵子の正月は、まるで他郷のお祭りみたいに通り過ぎて行った。まだ年賀状を見てないから余計そう思うのかも知れない。2~3日前に子供から、郵送したとメールがあったのではるばる海を越えて、今日あたり届くはずだ。それを手にしてやっと、二人の2015年がスタートするような気がする。

その内山夫婦がどんな毎日を送っているかと言うと、タカシさんやヒロコさんと特別な約束がない限り、恵子はアパートにいることが多い、身体の痛みに波があるのである。で僕はと言うと、書いたり読んだり、掃除洗濯以外は、買い物がてらの散歩が日課となっている。アパートから二百メートルほど坂を下ってすぐ右手に大型マーケットがあるのだが、時には下った勢いで、つい左に曲がってしまうと、そのまま加速がついて那覇の中心部(南)へ歩き始めてしまうことがある。こうなるとまるで風来坊で、行き当たりばったりの路地巡り。

沖縄は民家もビルも店舗も看板もオリジナリティに富んでいて、どの角を曲がっても僕には飽きるということが無いのである。暦では寒に入ったのに、こちらは太陽が出ると暑くて、公園のガジュマルの蔭で涼んだりもする。そうして思うさま散策を楽しんで、さあ帰ろうかと当たりを見回して「ところでここは?」と鳩みたいに目をパチクリさせる思考。そんな時に取り出すのが、和田悟朗仕込みの旅の必携品、小さな磁石である。

大好きな漫画
「がじゅまるファミリー」
蛍光塗料のついた針先が「えーと、ちょっと待ってね」とでも言うようにしばらく揺れてから「こっち」とN(北)を指すと一安心。方角がわかれば歩いている内に、標識が見慣れた町名を示してくれるというわけだ。買物袋をぶら下げてアパートに帰って、万歩計を確認するのも楽しみの一つ。ところで安謝はとても風の強い街だ。夜通し虎落笛が鳴っている。