2011年1月9日日曜日

2011年1月9日の目次

永田耕衣 × 土方巽  (1)
          大畑   等  読む
俳枕 江戸から東京へ (4)
    山尾かづひろ (現在読めません。次号で再掲載)
I  LOVE   俳句  Ⅰ-(1)
          水口 圭子  読む
尾鷲歳時記  (1) 
          内山 思考  読む
私のジャズ  (4)  
          松澤 龍一      読む

永田耕衣 × 土方巽(1)

大畑 等


序-芍薬忌  

うどん屋まで何米の憂き我ぞ  耕衣 『殺祖』より

私の愛唱句のひとつ。「うどん屋」から「憂き」まで駆け抜けていく速度、激しさに圧倒されるのだ。ことばが音である以上、言葉のもつ速度は音速を上限とする、こんなふうに考えると、この句にはそれを激しく超えていく迅さがある。

禅では師が弟子に胸ぐらを掴んで、「佛とは何か、云え、云え」と迫る。弟子は「前庭の柏樹子」と云い、「糞かきべら」と云う。そう、この耕衣の句には「うどん屋」と「憂き」を示しておいて、その間の空白を「云え、云え」と迫ってくる激しさをもっているのだ。言葉を越えて「云え、云え」と。

耕衣の迅さ、激しさは彼の書画にも現れる。私たちには、書画に端的に感じられるのだが、耕衣のなかでは句も書画も同じ迅さ、激しさで駆け抜けているのであろう。

「季刊銀花」(71年第7号 文化出版局刊)より















一方、土方巽。192839 秋田に生まれ、1986121日に没した前衛舞踏家。大方「土方巽をかんたんに紹介するのはむずかしい」と書かれている。確かに。しかし土方のどの写真、土方のどの文章にも土方その人が強烈に出てくる。また土方について書くことは誰もが強い緊張を強いられるはずだ。

『土方巽の舞踏』(慶応義塾大学出版会)より














舞踏家、演劇評論家、学者、詩人、作家、様々なジャンルの人たちが土方を語る、様々に語る。それらが的を射ているかどうか、そんなことはどうでも良いようだ。それら全部を土方は吸い込んでいくように感じるから不思議だ。ひとり土方が立ち現れる。

例えば、手に取った一冊、『器としての身體』で三上賀代は入門のときのことをこのように書いている。
―土方は私に、「びっこの乞食」をやってみろ、と言った。私は懸命に「びっこの乞食」になろうとした。土方は、ドンドンドンドンと太鼓を叩き、「うそつき、うそつき」と言い続けた。そして、「ことばと、妙なものだけで、うまく生きてきた人生を封じ込めよ」と土方が言った時、私の人生は、「ほんとうのこと」に向けて進み始めた。

不思議な本、『土方巽頌』は詩人の吉岡実による。吉岡は自分の日記と引用によってこの本を編んだ。ある意味、土方に対して寡黙な態度をとったと言えよう。俳句定型がその「言えなさ」をもって言うような、そのような表現を貫いた。その吉岡実が土方巽と永田耕衣を引きあわせたのだが、土方が強く耕衣に会いたかった、という言い方があっているようだ。

『アスベスト館通信第1号』(19861015日刊)は土方の追悼号で、永田耕衣は埴谷雄高に続いて俳句11句と追悼文を寄せている。前書に「這箇舞漢(二字傍点)熱演の<暗黒(二字傍点)舞踏>われ未見なれば其の深淵を夢想しつつ※十一句」とあるから、耕衣は土方の舞踏を観ていない。そしてその11句中の最後の句は

己れ舞い殺しつ活きつ芍薬忌

と土方の命日に「芍薬忌」を与えている。これで終わりかと思ったが、さらに1句とその句が成った経緯を文にしたためている。おそらくは一稿終わってから、後日に入稿したものであろう。その句は

芍薬や難思ゆたかなる舞漢

「難思」は仏教用語からとり、「心も言も及ばざること」と耕衣は解説している。しかし以前、土方を詠んだ句に

ねぢ花の腐れ間長き女体かな   耕衣

があり、「腐れ間」は土方の造語「間腐れ」、間が腐るというところからきている。



                 (続く)

I LOVE 俳句 Ⅰ-(1)

水口 圭子


傷舐めて母は全能桃の花   茨木 和生

「全能」という言葉は、子どもにとって母親とは絶対的な存在であること、これ以上の表現は無いかもしれないと思う。この句から、かつて読んだ大江健三郎のお母さんのことを思い出した。著書『「自分の木」の下で』(2001年1月刊)に出て来るその話は、かなりの衝撃を以て私を捉えた。

10歳の時敗戦を体験した大江健三郎は、それまで教えられていたことと全く逆のことを平然と言う大人たちに疑問を持ち、学校に行けなくなり、毎日を森で過ごしていた。そしてある秋の大雨の日にも森に入り、遭難してしまった。翌日助けられたが高熱で何日も死線を彷徨い、医者がもう手当の方法が無いというのを、朦朧とした意識の中で聞く。

目覚めた時、枕辺の母親に「僕は死ぬのだろうか?」と尋ねると、彼女は「もしあなたが死んでも、私がもう一度、産んであげるから、大丈夫。」と答えた。

「けれども、その子供は、いま死んでゆく子供とは違う子供でしょう?」と聞くと、「いいえ、同じですよ。私から生まれて、あなたがいままで見たり聞いたりしたこと、読んだこと、自分でしてきたこと、それを全部新しいあなたに話してあげます。それから、いまのあなたが知っている言葉を、新しいあなたも話すことになるのだから、ふたりの子供はすっかり同じですよ。」と言った。彼は、なんだかよくわからないけれど、本当に静かな心になって眠ることが出来、次第に回復して行った。

母親の包むような愛とはこういうのをいうのであろうと思う。母親、又はそれに匹敵する絶対的な存在の確信が、人を人として正しく成長させるのだと改めて思わされた。

尾鷲歳時記(1)

秋刀魚の燻製
内山 思考

 男にも春着はありぬただし地味  思考

あけましておめでとうございます。
奈良で生まれ、和歌山で育ち、学生時代を大阪で過ごした上に三重県尾鷲(おわせ)市に暮らし始めて三十数年、思えば僕の人生は六十年近くかけて紀伊半島を「の」の字に巡っているようなものである。


尾鷲湾


住めば都、とはよく言ったもので、東側に少し水平線が見える湾があるだけで、あとの三方は山が目の前にそそり立っているこの土地は、今や僕にとって「第二のふるさと」どころか本当の故郷のように愛着のある場所となっている。

たしかに、漁業、林業などの第一次産業は衰退し、過疎は進む一方である。しかしそれは尾鷲だけではなく全国の地方都市が抱えている問題だし、市民も行政も手をこまねいているわけではない。諦めてもいない。

正月早々、美味に遭遇した。
「思考さん、これ食べてみて」
友人がやって来て、下げていたビニール袋を突き出した。何だか焦げくさい。
「何、これ?」
筋骨隆々の彼はニタリ、と笑うと
「サンマのくんせい」
と言った。
「秋刀魚の燻製?」
そんなものがあるのか、と思った。
サンマと言えば、刺身、塩焼き、干物ぐらいが主な食べ方である。肉が簡単に手に入らない時代はサンマのすき焼きというのもあったそうだが…。

彼が帰ってから、一匹焼いてみようと思い、赤銅色をしているそれをガスレンジで炙ってアツアツを食べてみた。
秋刀魚の燻製









そして、あまりのうまさに絶句した。

何の木で燻したのだろう。身もワタも例えようのない旨みと甘さをたたえている。

それに、脂の染みた皮の歯ごたえといったら。僕はサンマの皮をこれほど味わって食べたことはない。
爆発的な感動をすぐ、電話で彼に伝えた。
「うまいやり(うまいでしょ)」
受話器の向こうの笑顔が見えるような気がした。

私のジャズ(4)

ペギー・リーは良い
松澤 龍一


MINK JAZZ (東芝EMI TOCJ-5342)のCDより












前のブログでMINK IN HI-FIのことを書いたら、ジャズ好きの友人からペギー・リーのMINK JAZZのことかと思ったとの反応があった。そう言われてみると、あった、あった、ありました、ペギー・リーのMINK JAZZ。確かレコードかCDを持っているはずと探してみたら、CDを積んである棚の隅に、埃をかぶって置いてあった。久しぶりに聴いてみる。良い。ペギー・リーの円熟期の録音で、ジャズを唄わせても最高!、と思ったが、元々、ペギー・リーはジャズ歌手。ノース・ダコタ州の田舎町に生まれ、都会に出て、ベニー・グッドマン楽団の専属歌手としてデビューする。アニタ・オデイ、ジューン・クリスティ、クリス・コナー、ジュリー・ロンドンなどと同じ白人系のハスキー・ジャズ・シンガーだが、アニタほど伝法肌でなく、クリスほど中性的でなく、ジュリーほどお色気過剰でなく、ちょうどいいのがペギー・リーと言ったところか。このCDで伴奏をしているプレーヤーもギターのハーブ・エリス以外は有名ではないが、みんなとても良い。特にトランペットのJack Sheldonのハスキーな音色、ペギー・リーのハスキーな声と絡まって絶妙な味を出している。

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追加掲載(120104)
ベニー・グッドマン楽団で唄うペギー・リー、若々しい。