2011年7月24日日曜日

2011年7月24日の目次

俳枕 江戸から東京へ(30)
             山尾かづひろ   読む
尾鷲歳時記 (27)                          
                   内山  思考    読む

私のジャズ (30)          
                  松澤 龍一     読む

俳枕 江戸から東京へ(30)

浅草界隈/馬道・吉原土手
文 : 山尾かづひろ  

吉原土手(日本堤)


















都区次(とくじ): 二天門を出ますと「馬道通り」となります。
江戸璃(えどり): この「馬道通り」は北へ真っ直ぐ行くと「土手通り」に出て、「土手通り」は吉原大門を経て投込寺の浄閑寺まで通じているわね。
都区次: 「吉原土手」はどこですか?
江戸璃: 現在の「土手通り」に平行して山谷堀があって、遠くは品川、潮留、近くは浅草橋、柳橋から堀を船で通う遊客も多かったのよ。堀と通りの間は「吉原土手」があったけれど現在は取り壊されていて、「土手通り」として名前だけ残っているわね。
都区次:ところで幕府は吉原のような大規模な悪所を何で許可したのでしょうか?
江戸璃:徳川の天下統一後の江戸は新興都市で、やたら男手が必要で大きく偏った人口構成だったのよ。表立っての問題じゃないけれど女性の絶対数の不足は独り身の男性にとって深刻な悩みとなっていたのね。一方関ヶ原の生き残りがまだウヨウヨしている時代で、幕府も遊郭は治安維持の一助になると、思ってはいたのよ。そんな時、元小田原北条家の家臣だった庄司甚内が人家もまばらだった日本橋葺屋町に遊郭の申請をしてきて幕府もこれを元和3年(1617)に許可をしたのよ。それで出来たのが元吉原と呼ばれた場所だったのね。明暦の大火後の明暦3年(1657)に風紀上の問題から浅草寺裏手の吉原(新吉原)に移転させられたのよ。
都区次:そろそろお昼にしませんか?
江戸璃:それでは吉原大門前の天麩羅「土手の伊勢屋」の天丼を食べに行きましょう。すごく旨いのよ。

天麩羅「土手の伊勢屋」









大綿や今は土手なき土手通り  大矢白星
番所跡交番となり冬雀      山尾かづひろ

尾鷲歳時記(27)

えんとつとエンピツ
内山思考

炎帝に愛され野球少年ら  思考 


最近廃業した銭湯の煙突












ボイラーや温水器など、家庭用の給湯設備が普及して、薪で焚くいわゆる「五右衛門風呂」をあまり見かけなくなった。僕の子供の頃は、内風呂のない家もあったから「貰い風呂」をしたものだ。向こう三軒両隣、ことさら恩に着せず、卑屈にもならず、さして裕福でない生活を互いに助け合って暮らした時代であった。

五右衛門風呂の底板は大抵、ヒノキで作られていて、これを足で踏んで沈めてゆき、少しずらして固定するわけだが、釜自体が熱くなっているので結構、入浴するにもコツがいったような気がする。最近の底板は多分、FRP製だと思う。昔の 町には銭湯(風呂屋)もいくつかあり、やはり湯船が大きいので、ゆっくり手足を伸ばすことができた。顔見知りに出会うと世間話に花が咲いて長風呂になってしまったり、湯上がりにラムネやコーヒー牛乳をグイグイと飲んだり、と家庭の風呂では味わえない開放感があり、銭湯は僕にとって明るい印象がある。

これを進化させたものが、最近、都会で流行りのいわゆる「スーパー銭湯」だ。こちらは家族が車で乗り付けて、食事に買い物、歌謡ショーまで楽しめ一日中でもいられるかわりに、出費もかさみ、そうそうは行けない。 尾鷲の町の銭湯も客の減少や設備の老朽化で次々に廃業し、現在、一軒残っているだけである。時代の流れとは言え、昭和の面影が薄れて行くようでなんだか淋しい。

鉛筆と愛用の文鎮

でも、熊野古道センターの近くに「夢古道の湯」という海洋深層水を使った温浴施設が出来て、そこは地元だけでなく観光に訪れた人にも人気であることを添えておきたい。 実は今日、銭湯の煙突を見ていて連想したのが「鉛筆」で、考えてみると語呂も似ているが、どちらも円柱形で中心部に煤(すす)と黒鉛、つまり炭素が入っているところも同じだ。 僕は原稿のほとんどを鉛筆で書く、2B、4Bなどを手回しの鉛筆削り器でゴリゴリ尖らせながら書いた方が脳みそも機嫌よく働いてくれそうに思うからだ。 さて、一段落したら久しぶりに銭湯へ行ってみよう。

私のジャズ(30)

夏の夜はタンゴで
松澤 龍一

 LOS MEJORES DE RANKO FUJISAWA
  (東芝EMI EOS-70127)












ジャズではない。タンゴである。勿論、アルゼンチンタンゴである。唄っているのは藤沢嵐子、日本人である。たまにはジャズ以外も良いかなと思い、今回はちょっと脱線をしてしまった。

実はこのレコード、私の愛聴盤の一つで、長い間、時々、思い出したように聴いている。夫君の早川真平の率いるオルケスタ・ティピカ東京やミゲル・カロのオルケスタ・ティピカを伴奏に、アルゼンチンタンゴの名曲を全編にわたり唄っている。その中の一曲、「夜のプラットホーム」、日本の歌、歌謡曲である。服部良一が作曲し、戦前は淡谷のり子が、戦後は二葉あき子が唄いヒットした。本場のアルゼンチンタンゴに引けを取らない、実に堂々としたタンゴである。



藤沢嵐子は東京音楽学校(現在の東京芸大)で勉強した本格的な声楽家である。父親の事業がうまくいかず、途中で学業を断念しナイトクラブの歌手になり、後に夫となる早川真平とともにアルゼンチンにわたりタンゴを勉強した。タンゴ歌手としてデビューし、圧倒的な人気を得たのは、まさに、そのアルゼンチンであった。

ランコ・フジサワの名はアルゼンチンに広く行きわたっていたようだ。帰国後、紅白歌合戦にも出場したりと、日本でも活躍したが、大分前に芸能界からはきっぱりと引退し、現在は新潟で一市井人としてひっそりと暮らしていると云う。