2013年7月28日日曜日

2013年7月28日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(134)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(131)
       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(134)

山手線・日暮里(その34)
根岸(上根岸82番地の家⑲「子規庵」その1)
文:山尾かづひろ 

子規の句碑











都区次(とくじ): 子規は明治28年5月23日に神戸の和田岬に上陸を許され記者仲間の手で神戸病院へ入院し、2ヶ月療養したわけですが、その後はどうしたのですか?
江戸璃(えどり): 7月23日に神戸から少し西へ行った須磨保養院で1ヶ月療養するのよ。場所的には現在の須磨海浜公園の中にあって風光明媚だったのよ。須磨寺には子規の「暁や白帆過ぎ行く蚊帳の外」の句碑が建っているわよ。
都区次:須磨といえば源平の古戦場であったり、源氏物語の巻名があるではありませんか。

読みふける須磨と明石を夏の床 佐藤照美

江戸璃: 源氏物語は子規の学生時代からの愛読書で、保養院時代も須磨と明石の巻を寝ころんで読みふけったのよ。
都区次: ところで源氏物語の須磨の巻とはどんな筋ですか?
江戸璃: 二十歳ころの源氏は宰相中将だかの地位で左大臣の娘・葵の上と結婚していたのよ。ところが源氏はあるきっかけから政敵側の右大臣の娘・朧月夜と一夜を過ごし、その後もよせばいいのに二人は密会を重ねていたのよ。この頃、朧月夜は帝のお側付きの最高位の女官・尚侍(ないしのかみ)になっていて、源氏と逢うなどということはけっこう危険なことだったのよ。ところが朧月夜は病気療養を理由に里帰りしている時に事もあろうに右大臣の屋敷で源氏と密会をしっちゃったのよ。この夜は急な落雷騒ぎになって屋敷を見廻っていた右大臣に二人は密会の現場を見つかっちゃったのよ。
都区次: 源氏だってタダじゃ済みませんよね。
江戸璃: このときの右大臣側は勢力の強いときで、密会の発覚は官位の剥奪、流罪の可能性も否定できなかったのよ。それならば自ら辺鄙(へんぴ)な須磨へ落ちようと、源氏は決断したのよ。
都区次: よく分りました。ところで今日は日暮里からどこへ行きますか?
江戸璃:むかし読んだサトウハチローの父・佐藤紅緑の「夾竹桃の花咲けば」という少女小説を思い出した。向島百花園に夾竹桃を見に行って近くで昼ご飯を食べない?


佐藤紅緑













葉の毒の花に及ばず夾竹桃 長屋璃子(ながやるりこ)
夾竹桃昼の定食玉子つき  山尾かづひろ

尾鷲歳時記(131)

夏と食欲 
内山思考
 
炎昼の香を食うインド料理かな  思考


妙長寺境内では梅の土用干し

お蔭様というか何というか、どれだけ猛暑が続いても食欲が落ちることはまずない。沖縄にいる間も、二日に一度は焼肉のバイキングに出掛けて胃袋を肉でいっぱいにしていた。手当たり次第に皿に盛ってきて、ジュウジュウいうか否かの奴を片っ端から口の中に放り込んでいたら、自分の皿に野菜やらフルーツやらを入れて席についた妻が「それ牛肉?豚肉?」と問うた。「え?」と我に帰って皿と焼き網の上を交互に見るが、肉同士がごっちゃになっていてよくわからない。さあ、と答えると 「何それ、結局なにを食べても一緒ということやね」 と呆れられ、自分でも少し驚いてしまった。

僕の中では(肉―美味い―噛んで―呑む)を繰り返していたわけで、それがモーなのかブーなのかは考えもしなかったのだ。他にも久高島の食堂で食べた「海ぶどう丼」、今帰仁のヨシコ食堂の「麩(ふー)炒め」なども強く思い出す。前置きが長くなったがここで触れておきたいのは、もう二度と食べられない記憶の中の一品なのである。

まず、松阪市寄りの国道沿いにあったN食堂の「中華そば」である。一緒に行った誰もが「ああ、子供の頃に食べた味だ」と笑顔になった。けれどもある時前を通ったら店は蘭のハウスになってしまっていた。市内のS飯店の水餃子も忘れられない。ご主人は日本人だったが戦争で苦労され、中国人の奥さんと、親類を頼って帰国して小さな店を出したのである。数年前ご夫婦は相次いで亡くなってしまった
 
バイキングの締めはスイーツで
熊野寄りの国道沿いのKの玉子丼はタマゴとタマネギしか使ってないのに絶品だった。ここも奥さんが体調を崩され店を閉じた。まだある、妻の伯母が営んでいた魚屋では毎年の丑の日、家族総出でウナギを焼き、秘伝のタレが人気を呼んでいつも大繁盛、あれはうまかったなあ・・・。でも、それもこれもみんな「今は昔」になってしまった。一期一会は食にもいえること。後悔のないように、毎日美味しく食べておきたいものである。