2012年8月12日日曜日

2012年8月12日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(84)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(81)
       内山 思考   読む

■ 私のジャズ(84)        
       松澤 龍一   読む

■ 第12回現代俳句大賞:芳賀 徹 特集 
    機関誌「現代俳句」5月号より

 俳句ナショナリズムからの解放 芳賀 徹 読む
 受賞の言葉 芳賀 徹          読む
 芳賀徹氏とあまたの詩歌 宇多喜代子   読む 

   
   
   

俳枕 江戸から東京へ(84)

愛宕山の周辺(その6)曲垣平九郎の話
文:山尾かづひろ 

上から見た男坂









都区次(とくじ): 改めて男坂の階段を上から見ると、急勾配で、元気な男でも勇気が要りますね。社前には曲垣平九郎(まがきへいくろう)の手折りの梅というものがありますが、これは何ですか?

登り切る出世の階段蟬時雨 冠城喜代子

江戸璃(えどり): これは講談の「寛永三馬術」の中の「出世の春駒」で有名な騎馬登段の話でね、徳川3代将軍の家光公が増上寺へ参詣の帰途、愛宕神社の石段上の源平の梅を目にして「誰か、馬にてあの梅を取って参れ!」と命じたのよ。ところが太平の世が続いちゃって、家臣にそんな馬術の達者な者なんかいないわけよ。家光公の怒りが爆発寸前、というときに馬で石段を上っていった者がいたのよ。家光公はその者に見覚えがなくて「あの者は誰だ」と聞いたところ四国丸亀藩の家臣で曲垣平九郎と初めて知ったわけ。平九郎は見事、山上の梅を手折り、馬にて石段をのぼり降りし、家光公に梅を献上してね。平九郎は家光公から「日本一の馬術の名人」と讃えられ、その名は一日にして全国にとどろいたというわけ。

曲垣平九郎













騎馬登段虚実は問はず夜の秋 長屋璃子(ながやるりこ)
講談の名調子聴く夜の秋 山尾かづひろ 

尾鷲歳時記(81)

甲虫 感あり
内山思考

盂蘭盆の墓地を銀座と思うなり  思考

この数秒後、玉虫は飛び立った

















オリンピックに夢中になっている内にお盆がやってきた。 僕の家は天狗倉山の麓で、内山家の墓は尾鷲の北隣の紀北町へ続く馬越峠の登り口にある。そこには数百基の墓が並んでいて、妻が子供の頃はあたりが森だったせいもあり近づくのが怖かったそうだが、今はまわりの木々は切り払われ家も間近に建ち、見晴らしのいい丘陵地になっている。墓地の真ん中を通る坂道は世界遺産に登録された熊野古道の一部なので、峠の方からハイカーがぞろぞろ下りてくるのをよく見かける。大抵、全員が爽やかな顔をしている。

お盆は一転して墓参の人で大いに賑わい、こちらも皆さん俗臭の抜けた顔に見えるのは先祖と魂の会話をしているからだろうか。お墓と言えば僕の実家のある十津川村は、明治の廃仏毀釈以来神式だから墓前に榊、米などを供え柏手を打つ。三十数年前尾鷲に来た頃の僕は、仏式の合掌に慣れてないのでお葬式で焼香をするたびに手がムズムズして困ったものである。

ところで以前、実家の墓地で玉虫を発見し、ああ美しいと手を出したが逃げられて悔しかった思い出がある。その夢の玉虫を二、三日前、炭焼の親方と山へ行った帰り道で見つけて今度は手中にした。生きた玉虫に触れるのは多分、生まれて初めてだ。自然は何故こんな綺麗な生き物を作ったのだろうと暑さも忘れて感動した。腹の方まで色鮮やかなのには驚いた。写メールを撮るために、親方に持って貰い太い指を這っているところを一枚撮った瞬間、玉虫は輝く羽根を広げてあっという間に空へ消えてしまった。

御在所岳の
鍬形虫
虫と言えば先週、義兄の初盆のついでに姉の一家と御在所に行き、その夜は湯の山温泉に泊まったのだが、甥がホテルの外で大きな鍬形虫を捕まえて来た。六センチ以上はあるだろう。ペットショップに持ち込めばかなりの高値になる、という現実的な話も出たが結局、夜通し甥たちの部屋を飛び回り、どこかにぶつけたらしく脚がもげそうになっていて、朝、ホテルを出がけに鍬形虫は御在所の山へ解放されたのであった。

私のジャズ(84)

ヴァーチュオーゾ
松澤 龍一

CHARLIE PARKER ON DIAL COMPLETED
(CJ25-5043~6)













モダン・ジャズと呼ばれる新しい形のジャズが生まれたのは1940年代と云われる。自然発生的に生まれた音楽形態で、発生当時はビーバップと呼ばれていた。従来のジャズと何が違っていたか。語弊を恐れずに言えば、踊るための音楽から聴くための音楽への移行と言えよう。ビーバップ誕生当時、支配的だったのは、ベニ―・グッドマンに代表される、いわゆるスウィング・ジャズと云われるもので、もっぱらナイト・クラブなどで、酔客に踊るための音楽を供してきたものだった。デューク・エリントンしかり、カウント・ベイシーしかりである。ジョ二―・ホッジスもレスター・ヤングも彼らの才能溢れるソロを、お客さんたちが快くジルバを踊れるように演奏したのである。それにしても、ジョニー・ホッジスやレスター・ヤングで踊れるジルバとはなんとも羨ましいが。

このような状況では、当然、プレーヤ―、特に若手のプレーヤーの中に不満が生まれる。もっと早いパッセ―ジが吹きたい、もっと高い音を出したい、もっと長くソロをとりたいなどなど、プレーヤーの中のヴァーチュオーゾ精神が頭をもたげる。バンドでの正規な仕事が終わってから、物足りない連中が三々五々集まり、ジャム・セッションを繰り広げるようになる。ニューヨークの「ミントン・ハウス」にはチャーリー・クリスチャンやセロニアス・モンクなどの若手のプレーヤーが集まりジャム・セッションを毎夜繰り広げる。

うした中で自然発生的にビーバップと呼ばれる新しい形態のジャズが生まれた。但し、このビーバップがジャズの主流になったかと云うとそうでは無い。当時のビーバップに対する評価は、やたらとうるさい、早過ぎて踊れないで、おかしな連中がやっているアングラ音楽程度のものだったろうと推測される。このような音楽形態がモダン・ジャズとして、ジャズの主流にのし上がっていくには、ジャズを踊るためのものでは無く、聴くためのものとして評価してくれる聴衆の熟成が必要不可欠だった。それを支えるラジオ、テレビ、テープ、レコードのような媒体の進化も忘れてはならない。

ジャズに新しい局面をもたらしたビーバップはプレーヤーの、テクニックを自慢したい、名人芸を披露したいと言ったヴァーチュオーゾ精神がドライブしてきたと思う。これ無くして、ジャズに新しいの局面が開かれたかと云うと、はなはだ疑問である。チャーリー・パーカーの「チュニジアの夜」、短い演奏ながら、その冒頭の超高速パッセ―ジ、これぞまさしくビーバップである。ユーチューブの画面には、ご丁寧に famous alto break と詠われている。



アンソニー・ブラックストン、時代は大分下って、オーネット・コールマン以降の、いわゆる前衛ジャズの世代のアルトサックス奏者である。ソロには明かに後期コルトレーンの影響が見られる。行きずまってしまったモダン・ジャズ、それを打ち破ろうとしたオーネット・コールマン、そしてコルトレーン。このアンソニー・ブラックストンの演奏にそのあがきが感じられる。好き嫌いは別にして名演である。


俳句ナショナリズムからの解放

芳賀 徹
第12回現代俳句大賞受賞記念エッセイ

平成24年3月24日
表彰式にて










高浜虚子は昭和十一年(一九三六)二月十六日から六月十五日まで、ちょうど四个月、生涯にただ一回の、そしてはじめてのヨーロッパ旅行をした。その旅上の日々の見聞の記録が、帰国後まもなく一冊の本となった『渡仏日記』(改造社 昭和十一年八月)である。
 


この『日記』は当年満六十二歳、終始一貫和服姿の大宗匠虚子の益荒男ぶりをよく示していて、まことに興味深い。なかでも驚く、という以上に度肝をぬかれるのは、彼がパリ、ベルリン、ロンドンでおこなった講話における俳句的愛国主義者ぶりである。とくに『日記』にかなりくわしく記されていて強烈なのは、昭和十一年四月二十五日土曜の夕刻、「伯林日本学会」の会議室で満場の聴衆を相手に語った日本俳句論だった。
 


はじめに、俳句がわずか十七文字の超短詩型の文学となった由来を説いて、日本人は「複雑な喜怒哀楽の情を現すにも沈黙微笑をもつてすることを好み」、ことに詩においては「一本の草花一羽の小鳥に」託して感情を表現することを好むからだ、という。
 


ヨーロッパではすでに十九世紀後半以来のジャポニズムの流行によって、日本人は小さな自然現象の観察をとおして宇宙の摂理を予覚し、人生の哀歓を表現するというのが、日本藝術受容上の一つのステレオタイプとなっていたから、ドイツ人聴衆もそれに合わせてこの説明を呑みこむことはできたろう。その上に、なんといっても、語っているのが当代一の俳句詩人という髙浜虚子、彼の端然たる着物姿と声がすでに人々を魅惑してもいただろう。
 


彼がつづけて、欧米で俳句を試みる人は十七音節にこだわる必要はない、それは音韻構造の差異を無視した無用なことだ、と説いたのは正しい。十七音にこだわるよりは春夏秋冬の自然のうつろいをよく観察せよ、ドイツの春景色もなかなかよいではないか、その「あるがまま」の美しさをとらえて讃えよ、と語ったのもよい。そしてその花鳥調詠を試みるときに、俳句では、自然の現象を「人間の運命に譬へたり、又それによって恋を詠ったり、又哲理をその中に見出したりすることは直接には致しませぬ」との言葉は、さらによい。さすが東西古典に通じた大教養人ならではの言だ。たしかに、ゲーテやワーズワースにしてもヴィクトル・ユゴーにしても、詩の中でもっぱらそのような哲学論、人生論、宗教論の長広舌をふるうのを得意としていたからである。
 


だが、この後に、花鳥諷詠に季語は不可欠として、虚子は日本列島の春の季語を幾十となく恬然として例示してゆく。ここがベルリンで、聴衆はドイツ人であることなどいっさい無視したかのごとく強引に日本の動植物名を列挙してゆく。そこにいまの私たちは、大宗匠の貫禄などという以上に、そして愛国主義という以上に、他者に対して鈍感な国粋主義の口調さえ感じて、呆れるのだ。
 


「雪が解けたり、菜の花が咲いたり」と日本の春を語りだして、海棠、ゆすら、木瓜と花の名を挙げてゆくあたりまでは、当夜通訳をつとめたベルリン大の日本人留学生もなんとか追ってゆけたろう。だがすぐにつづけて「海には鹿尾菜、海雲、海髪等がとれ、畑には大根の花、豆の花、水菜、鶯菜等が出来又動物には鶯、雉子、鷽、駒鳥、雲雀、燕、蛙、蝶、虻、蜂、蚕等が時を得顔に活躍し、その他天文、地理等も複雑美妙な種々な現象おこします…」
 


まるで歳時記の目次をただ読みあげているような講演である。当夜にわかに頼まれたという通訳生はまったくお手上げ、そして聴衆は、いくら日独の接近急な時代とはいえ、ただ唖然、呆然とする以外になかったろう。これでは日本の四季を知る日本人以外には俳句は作れない、というようなものではないか。実際、虚子はこの後すぐに「日本は俳句の聖地エルサレム」と語り(ナチスによるユダヤ人虐殺が進行中の時代に「エルサレム」を称するのも相当な度胸だ)、俳句を作るためには日本にいらっしゃい、と聴衆に呼びかけもする。
 


虚子はパリでは幾人かのフランス人ハイキストと一夜、二夜の交流もした。だが彼らは詩人としては二流、三流の人々にすぎなかった。そのなかの一人、ポール=ルイ・クーシューの俳句論(一九〇六)に収められた芭蕉、蕪村の仏訳に遠く近く刺激されて、来日したこともないあのドイツ詩人リルケが、後にフランス語で俳句風短詩集『果樹園』を出していたことを、虚子はまだ知らなかったのだろうか。さらには、彼より六歳年長のフランスの大詩人ポール・クローデルが、大使として大正後半の日本に在勤中に俳句・短歌に学んで一七二首の短唱集『百扇帖』(一九二七)をあらわしていたことを、彼はまったく知らなかったのだろうか。
 


『百扇帖』には虚子の同時期の「白牡丹といふといへども紅ほのか」などに立ちまさる牡丹の句がいくつも収められている。そして例えば次の一
 ――
 Bruit de l'eau sur de l'eau
 ombre d'une feuille sur une autre feuille
  水の上に 水のひびき
  葉の上に さらに葉のかげ(山内義雄訳)
となれば、十七音はもちろん、虚子の偏執する日本的季題をいっさい超え
、むしろそれを超えたがゆえに一段とみごとな俳句的短詩となっていた。自然のもっともかすかな動きを把えて、まさに縹渺として深遠な諷詠となった。芭蕉の「蛙飛びこむ水の音」や「岩にしみ入る蝉の声」にまさるとも劣らぬ一句とさえいえよう。『百扇帖』はこの俳句的緘黙の実験によって、フランス詩五百年の饒舌の歴史に、実は革命をもたらしたのである

近年のスエーデン詩人トマス・トランストロンメルの「俳句詩」まで含めて、俳句は、各国第一流の詩人が俳句に刺激されつつも、ときには季語のことさえ忘れて「物の見えたる光」の一瞬を短詩型のなかに捉えることによって、現代詩としての存在理由を獲得し、世界に普遍化してゆくのだろう。虚子の俳句的ナショナリズムとは逆の寛容と度量をもってその動きに接するとき、日本の俳句詩もまたさらに深く鋭く豊かになってゆくのではなかろうか。

第12回現代俳句大賞受賞の言葉

受賞の言葉 芳賀 徹

平成24年3月24日
授賞式にて










「現代俳句大賞」を下さるとのお電話を頂いた朝、私はほんとうにわが耳を
疑いました。曙町(旧町名)の住人として夜明けまで起きて仕事をしていることの多い自分は、やはり寝ぼけていたのではないか、とさえ思いました。

でも、なんだか嬉しい。無理にベッドから起きあがってみて、はじめていまの電話はほんとうだったとさとりました。

 
まことに有難うございます。戦時中の東京の小学校で、俳人でもあった担任の先生に国語の時間に五七五の作句を習って面白がったことはありました。後年、大学院比較文学比較文化の研究室旅行で夕食後など浴衣姿で教師も学生も畳に寝ころがっては、私が音頭取りで互いに罵倒しあいながらでたらめ連句を楽しんだこともよくありました。でも、まともな作句経験は私にはありません。その私が受賞ということに驚きつつも、大いに光栄に存じます。

俳句を読み、味わい、論じることはずっと好きでした。ことに「おくのほそ道」や蕪村、中村草田男や橋本多佳子は、短歌の斎藤茂吉と同じほどに好きで、彼らの作に生きる勇気とよろこびを与えられつつ、彼らについて書物やエッセイを書くこともしました。フランス語教師また比較文学者として、詩人大使ポール・クローデルの日本文化論や俳句的短唱集『百扇帖』を大いによろこび、現代詩人イヴ・ボヌフォワやフィリップ・ジャコッテの俳句論や短詩にも目を洗われる思いをしてきました。

そんな折々に書き綴ってきた文章を、どこかでちゃんと眼にとめて下さる方々が、現代俳句協会にはいらっしたことに、あらためて厚く御礼申上げます。そして現代の俳句詩がこの二十一世紀にいよいよ世界普遍の詩となってゆくことをこそ、願っております。
 



■略 歴
・昭和6年5月9日山形市生まれ(80歳)。
・昭和28年東京大学教養学科フランス分科卒業、
同大学院比較文学比較文化専攻入学。昭和30―32年パリ大学留学。文学博士。
・昭和38年東京大学教養学部専任講師、昭和40年助教授、昭和50年教授。
・平成4年定年退官。その後、国際日本文化研究センター教授、大正大学
教、京都造形芸術大学学長等を歴任。
・平成10年岡崎市美術博物館館長(平成23年6月まで)。
・平成22年静岡県立美術館館長(現在に至る)。

◎主な著書
『明治維新と日本人』『平賀源内』『與謝蕪村の小さな世界』『絵画の領分
』『文化の往還』『詩の国詩人の国』『詩歌の森へ 日本詩へのいざない』『ひびきあう詩心―俳句とフランスの詩人たち』『藝術の国日本 画文交響』など多数。
◎主な受賞歴
・昭和56年『平賀源内』でサントリー学芸賞。
・昭和59年『絵画の領分』で大佛次郎賞受賞。
・平成9年紫綬褒章受章
・平成12年京都新聞文化学術賞(比較文学)受賞
・平成18年瑞宝中綬章受章
・平成23年『藝術の国日本』で蓮如賞受賞

芳賀徹氏とあまたの詩歌

宇多喜代子

表彰式:左は宇多会長(当時)









第十二回の現代俳句大賞の受賞者が、芳賀徹氏に決った。芳賀氏は、比較文学、比較文化専攻の学者として知られたかたで、その観点視点からの詩歌への言及は、狭い枠内での評価、鑑賞に自足しがちな俳句の世界に戸外の風を送り込む発信者として貴重な存在だ、という選考委員の意見のまとまりをもって決定した。
 


東京大学の教授時代から今日に至る間に出された芳賀氏の著書や編著には、素人読者の歯には適わないものがほとんどだが、そんな中に、たとえば『みだれ髪の系譜』『絵画の領分 近代日本比較文学史』『与謝蕪村の小さな世界』『文化の往還 比較文学のたのしみ』『詩歌の森へ 日本詩へのいざない』『ひびきあう詩心 俳句とフランスの詩人たち』『藝術の国日本 画文交響』などがあり、その書名を見ただけで、わかってもわからなくても読んでみたいと思われてくる。

これらは、自分たちには遠い学問だと思っていた「比較文学」というジャンルを身近に感じさせ、俳句が俳句だけで立つ魅力の近隣にはさらなるおおくの魅力をもったものがきらきらしているのだということに気づかされる。いずれも難しいことが易しく書かれており、安心して読むことができる。

たとえば幾年か前から私の本棚にあって、幾度も繰った『与謝蕪村の小さな世界』である。まるで蕪村が現代に生きている俳人画人であるような親しみを感じさせ、小さな俳句から大きな世界に広がってゆく蕪村の魅力の虜になる。

蕪村の「春風馬堤曲」の解釈など、
  歳旦をしたり皃なる俳諧師

の蕪村自身と、うきうきした薮入り娘の登場する芝居の場面のように展開する。画人蕪村ならではのシナリオであることが、よくわかるように解釈されている。

一人の猟師が、細い道を通り洞窟を潜って出くわす平和で幸せな村里桃源郷。芳賀氏は、桃源郷を「東アジア文学における楽園のトポス」として、多くの絵画を探索し、文人であり画人である蕪村を、近代日本における桃源郷再発見の動きの中のパイオニアの一人だとする。この論考からは、「想像の力学」という俳句の読みが示唆され、一句の読みを判で押したような印象批評や、重箱の隅をつつくような技術批評だけで終える俳句の鑑賞をもう一歩進めるおもしろさを教えられる。

一句からの「想像」は、同書の「蕪村絵画における桃源郷」の、
  桃源の路次の細さよ冬ごもり蕪村
  商人を吼る犬ありもゝの花
  初午や鳥羽四ッ塚の鶏の声
などに見える「桃源郷のトポス」へ同行することや、
京都の細い路地に愛着する「籠り居の詩人」蕪村の相伴をさせてもらうなど、俳句を多角的に楽しむヒントがちりばめられている。

親しみやすいもう一冊は『詩歌の森へ 日本詩へのいざない』であろうか。古今の名だたる「詩歌」一篇を取り上げ、それに纏わる掌論を付したもので、どこからでも読めるという気軽さがある。それでいて時代や国、ところを超えて一つの詩にもう一つの詩を並べて、ことばのおもしろさや、古典や外国の詩人のエッセンスを二倍にも三倍にもして伝えてくれる。

徳川日本を対象にして考えただけでも、「比較文学史研究は日本文化の全ての局面に及びうるのであって、それだけに屈伸自在、まだ当分は輪郭鮮明なスタイルももちえなければ、正式の必要手続きといったものもありえない。要するに、世にいわゆる史学者のようにはじめから一定の史観と『史学研究法』とで実を鎧い、すでに大体きまっている結論の方向に従って、モグラのように史料の山にもぐりこんでゆく ―― ということをしなければよいのである。」『与謝蕪村の小さな世界』

「比較」操作をより立体的に、新鮮に行う基本とでもいえようか。いま、俳句をつくり、俳句を読む私たちに必要なことも、ここにある。対象にする詩歌が徳川時代のものであっても、いまのものであっても、同じであろう。

比較文学の造詣を基盤において外国の文化詩歌を忌憚なく語る。陶淵明の隣にフランスの詩人がいたり、ブラウニングの橫に蕪村がいたりすることが少しも不思議ではない視点で、俳諧俳句を国際的に展開させる。

俳句の国際化が言われるようになって久しいが、真の国際化への門扉はまだまだ広く開いてはおらず、一部の先駆的な方々に委ねられているいま、芳賀先生にご教示いただくことが多くある。

現今の海外の俳句の隆盛と、いささか方角のちがう日本発の海外俳句。その齟齬を埋めるのは、やはり「海外俳句」の真の理解者であろう。その意味からも、現代俳句大賞を受けていただくにふさわしい方に受けていただけたと喜ばしく思う。

後の俳句を担う青年たちには、練り上げられた学識をお持ちの先行の、ゆたかな感性からうまれた発信を存分に受け取り、ぜひ今後の諸氏の俳句のためにおおくを学んでほしいと思う。