2011年12月4日日曜日

2011年12月4日の目次

現代俳句をITで楽しむ:『現代俳句』平成23年12月号より
             大畑 等   読む
 

■ 俳枕 江戸から東京へ(48) 
                       山尾かづひろ   読む
■ 尾鷲歳時記(45)                        
                  内山  思考    読む

■ 私のジャズ (48)          
                  松澤 龍一     読む

現代俳句をITで楽しむ

『現代俳句』平成23年12月号 「直線曲線」より
大畑 等

 現代俳句協会のホームページをご覧になったことはありますか?インターネットを使用されない方は、どなたかにお願いして是非ご覧下さい。現代俳句協会の歴史・組織のことをはじめ、行事や句会のことなど多方面にわたって掲載しています。

  そのなかにインターネット(IT)句会があります。現代俳句協会会員に限らず、どなたでも参加出来るオープンな句会です。G1・G2のグレード制で、合計で毎月1800句ほど投句されます。会員の自己紹介欄を読みますと、様々な理由でインターネット句会に参加されていることを知ります。
               
                ※
「難病と共生しています」
「脳梗塞をして、左手リハビリの為PC(パソコン)を勉強中」
「車椅子の生活です。見たままの俳句と冬は頭の中で考えた俳句を作っています」
「白血病を俳句で乗り越えようとしています」
「若くして脳出血を患いましたが、リハビリ日記のような俳句を我流で始めてみました」
「音声で入力をしております」
 
このなかのお一人が、

徒競走歯をくひしばる青みかん   万里子 

の句を投句されました。G1の901句のなかの一点句で高得点一覧から漏れてしまう句でした。講評では、「その他の注目句」欄を設け、たとえ無得点であっても私が感銘した句は取り上げるようにしています。この句の講評では「走者の緊張感は作者の緊張感でもあり、また『青みかん』のそれでもある。徒競走の情景が、座五の『青みかん』に収束され焦点を生みました。」と書きました。

 実はこの原稿を書くにあたって、先ほど掲げた「自己紹介」のなかの一人と知り、感慨を深くしています。ああ、「歯をくひしば」っているのは、作者なのだと。

 もう十数年も前のことと思います。新聞でほぼ一面を使って、インターネットの活用を訴えていたのは作家の水上勉でした。病気の人、高齢の人こそインターネットを活用して欲しい、ということでした。  

 水上勉は平成元年に心筋梗塞で倒れ、ペンを持つことが出来なくなりました。そこでパソコンを始めた、指一本でポツリ、ポツリとキーボードを打ったようです。そしてインターネットを始めました。夜中に目が覚めても、仲間にメールを送ることが出来る。電話の場合、ベルが相手を起こしてしまいますが、メールなら相手が起きたときメールを見ることになります。仲間との深夜のコミュニケーションにより、孤独感に陥ることはない。そのような訴えでした。

 「インターネットの功罪」とか「インターネットは俳句をどう変えるか」という議論もありますが、身体的なハンディを負っている人の活用についても忘れてはいけないことと思います。俳句に限らず、「書きたい、綴りたい」という欲求に応えてくれるからです。

 IT句会は投句者の相互選。G1会員の人はG1の句、G2会員の人はG2の句の選をします。そして感想や鑑賞を掲示板に書き込み、お互い楽しんでいるようです。投句者は毎月900句ほど読み、選をします(皆さんタフです)。ときどき類句・類想句の問題で掲示板に訴えがありますが、良識的な運びとなっています。

 一人の人間に緩急があるように、IT句会でもそのときどきの緩急のリズムがあるようです。3月11日の「東日本大震災」後、4月、5月投句の句会では緊張感を感じました。そのなかから、いくつか抜き出してみます。

哀しくてどこからはじめよう さくら     良子
地震去りて囀り太郎かも知れぬ        樋口紅葉
先生と海底出でよ子供の日               高橋みよ女

 最後に、最近のIT句会からいくつか抜き出して終わりとします。

嫁さんの風向き次第鉄風鈴            なにわの銀次
尻を拭く皺くちやの尻迎へ盆             小愚
半夏生姉の辞書より煙草の香               横田未達
稲妻を食らうて国語舌を出す              赤松勝
トラックに大首絵あり夏木立        小林奇遊
そら豆やこの世で礼の言えぬひと       吉村紀代子
らっきょ食む孔子の弟子となる日まで         陽南
ATMに指なめられしカフカの忌   おくだみのる
柿の木をどうする父の七回忌              本田信美
半夏生叩きたくなる尻がある                 玉水敬藏
夏立つやぬうつと立てばぬうつとな      三休
荒縄の巻かるる地蔵花は葉に            坂東三郎
阿蘭陀の木靴売る店若葉風                高橋城山
笹粽雨の匂ひのしてゐたり                大塚正路
恋愛映画見て尾骨より新樹                木野俊子
紋黄蝶無言の吹き出しが舞う            中條啓子

 

俳枕 江戸から東京へ(48)

隅田川東岸/本所松坂町公園
文 : 山尾かづひろ 

本所松坂町公園














都区次(とくじ): いよいよ12月となりました。12月といえば赤穂義士の討入りです。今日はJR両国駅から吉良邸跡の本所松坂町公園へ行きたいと思います。 それでは「討入り」のあらましをお話し願います。
江戸璃(えどり):「討入り」の前段階の「松の廊下の刃傷沙汰」に至るまでの「いじめ」の数々はこの事件を題材にした「忠臣蔵」でよく知っているわね。説明が重複するけど元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)、播州赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が、高家旗本(こうけはたもと)の吉良上野介義央に対して江戸城殿中において刃傷に及んだわけよ。浅野内匠頭は殿中抜刀の罪で即日切腹となり赤穂藩は改易となったわけ。遺臣である大石内蔵助良雄以下赤穂浪士47名(四十七士)が翌15年12月14日(1703年1月30日)深夜に吉良屋敷に討ち入り、主君が殺害しようとして失敗した吉良上野介を家人や警護の者もろとも殺害した大事件だったのよ。
都区次:現在の吉良邸跡は武家屋敷としては小さいのですが?
江戸璃:吉良上野介が隠居したのは元禄14年3月の刃傷事件の数ヵ月後で、幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ、代わりに松坂町に新邸を与えたのよ。討入りは翌元禄15年(1702)12月14日だから、1年半に満たない居住だったのよね。隠居したとは言っても屋敷は広大で、東西七十三間、南北三十五間で、面積は約2千550坪(約8400平方メートル)だったとされているわね。明治維新後に江戸中の武家屋敷は官有地と民有地に仕分けされて、この吉良邸の屋敷も跡形もなくなっちゃったのね。昭和9年(1934)地元両国3丁目町会有志が発起人になって、邸内の「吉良の首洗い井戸」を中心に土地を購入し、昭和9年(1934)3月に東京市に寄付し貴重な旧跡が維持され、昭和25年(1950)9月に墨田区に移管されたのよ。現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の八十六分の一の大きさに過ぎないのよ。如何に元の屋敷が広大だったか判るわね。
都区次:現在は墨田区の旧跡としてはっきり残されているわけですが、行事的なものはあるのですか?
江戸璃:毎年12月14日、義士討入りの日には、両国連合町会主催の「義士祭」、12月の第2または第3土曜日・日曜日には両国3丁目松坂睦主催の「吉良祭」や地元諸問屋出展の「元禄市」が開催され、大変な賑わいを見せるわよ。

首洗い井戸










凩や吉良邸跡のなまこ壁  長屋璃子(ながやるりこ)
悴みて吉良邸跡に辿り着く  山尾かづひろ

尾鷲歳時記 (45)

珈琲杯
内山思考 

老眼にしか見えぬもの冬うらら   思考 


矢野孝徳作
勿体無いので未使用













焼き物の知識はあまりないけれど、妻が好きなので、機会があれば観に行くことにしている。 先々週は菰野町のパラミタ・ミュージアムへ出掛けた。「北大路魯山人展」が開催されていたからだ。「書」も「画」も「陶芸」も「料理」も師を持たず、あれほどエネルギッシュな生き方を見せ、豊潤な作品群を残したのだから、やはり天才だったのだろう。

「色絵福字平向五人」「伊賀風透し彫鉢」「乾山風椿絵鉢」の絵ハガキを買い、隣の「茶々」でとろゝ飯を啜り込んで帰って来た。 先週は、地元で東京在住の陶芸家・矢野孝徳さんの作品展があり、それにもいそいそと足を運んだ。もちろん妻と。

 器というのは面白いものだ。一口に鍋だ茶碗だ盃だと名がついて分類されていても全ての表情がみな違う。 ことに陶磁器の場合、人の仕事は造形までで、最後の仕上げを火に託さなければならない。肝心なところだけ人の手を離れるのである。まったく愉快である。「美の神の添削」。

矢野さんの作品は販売もしてくれるそうなので、懐具合と相談してコーヒーカップを買うことにした。 めんどくさがり屋の僕は、自宅では専らインスタント派でいつも机の上にはデミタスカップが乗っている。何故デミタスかと言うと、せっかく熱々を淹れても、一口飲んでは読み、二口飲んでは書き、している間に冷めてしまうのでマグカップでは勿体無いからである。

矢野さんは 「どうぞ手で持ってお確かめ下さい」と言う。 しかし、僕は割れ物に触れるのはとても苦手なのだ。持った途端に誰かが体当たりして来ないとも限らないではないか。その点、妻は大胆で、高価なガラス器であってもヒョイと手に取る。とかなんとか考えている内に妻が「これにしたら」。

桂三象さんのオデコにも
随分キス?した

私のジャズ (48)

油井正一さんのこと
松澤 龍一


「バグス・アンド・トレーン 」
(Atlantic MJ-7023)













中学生の頃だったと思う。父親に連れられ銀座に映画を見に行った。見たのは「アラビアのローレンス」、内容は中学生には難しく、良く分からなかったが、どこまでも続く白い砂漠の印象が強烈だった。映画の帰りに数寄屋橋の「ハンター」で買って貰ったのがこのレコードで、数度にわたる仕分けを生きのび、今だに手元に残っている。ビクターが発売した国内盤である。従ってジャケットも輸入盤の様に硬質の紙では無く、ペラペラとした薄手のものである。この薄手のジャケットも、今になると妙に懐かしい。

ライナーノーツは油井正一さんが書いている。日本のジャズ評論の草分けの方で、その著書、「ジャズの歴史」は長らく私のバイブルであった。編年的に歴史を述べたものでは無く、ジャズの歴史上のトピックスを軽妙に分かりやすく語っており、読むと思わずその音楽を聴いて見たくなってしまう。「レスター・ヤングを始めて聴いた時、その音のあまりの女々しさに失望してしまった」とか「ラジオでクラッシックとジャズの対抗番組が組まれ、クラッシック側がマリア・カラスを出したとき、こちらはベッシー・スミスをぶつけて、相手をうならせた」とか、今だに覚えている。後に「ジャズの歴史物語」と名を変えて再版された。

両方とも持っていたが、今は本棚に無い。惜しいことをしたと思ったら、「アマゾン」で売られている。これは嬉しい。早速買わないと。彼の母校の慶応大学三田アートセンターに、「油井正一ジャズアーカイブ」として、彼がその生涯に集めた総数約10,000点におよぶ資料や記録が保存されているらしい。

上掲のレコードで「バグス」とはバイブ奏者、ミルト・ジャクソンの愛称で、「トレーン」とはジョン・コルトレーンの愛称である。ミルト・ジャクソンの主な活躍の場はMJQだったが、MJQのミルト・ジャクソンはあまり良くないと言われていた。型にはまり過ぎて、彼の自由奔放なソウルフルな面が抑制され過ぎていると言うのがもっぱらの評判である。確かにそうだと思う。一度、MJQのコンサートに行ったが、実に退屈なコンサートだった。

この演奏は素晴らしい。日本の野外コンサートでのもののようだ。豪快なバイブ演奏が聴ける。