2011年12月4日日曜日

尾鷲歳時記 (45)

珈琲杯
内山思考 

老眼にしか見えぬもの冬うらら   思考 


矢野孝徳作
勿体無いので未使用













焼き物の知識はあまりないけれど、妻が好きなので、機会があれば観に行くことにしている。 先々週は菰野町のパラミタ・ミュージアムへ出掛けた。「北大路魯山人展」が開催されていたからだ。「書」も「画」も「陶芸」も「料理」も師を持たず、あれほどエネルギッシュな生き方を見せ、豊潤な作品群を残したのだから、やはり天才だったのだろう。

「色絵福字平向五人」「伊賀風透し彫鉢」「乾山風椿絵鉢」の絵ハガキを買い、隣の「茶々」でとろゝ飯を啜り込んで帰って来た。 先週は、地元で東京在住の陶芸家・矢野孝徳さんの作品展があり、それにもいそいそと足を運んだ。もちろん妻と。

 器というのは面白いものだ。一口に鍋だ茶碗だ盃だと名がついて分類されていても全ての表情がみな違う。 ことに陶磁器の場合、人の仕事は造形までで、最後の仕上げを火に託さなければならない。肝心なところだけ人の手を離れるのである。まったく愉快である。「美の神の添削」。

矢野さんの作品は販売もしてくれるそうなので、懐具合と相談してコーヒーカップを買うことにした。 めんどくさがり屋の僕は、自宅では専らインスタント派でいつも机の上にはデミタスカップが乗っている。何故デミタスかと言うと、せっかく熱々を淹れても、一口飲んでは読み、二口飲んでは書き、している間に冷めてしまうのでマグカップでは勿体無いからである。

矢野さんは 「どうぞ手で持ってお確かめ下さい」と言う。 しかし、僕は割れ物に触れるのはとても苦手なのだ。持った途端に誰かが体当たりして来ないとも限らないではないか。その点、妻は大胆で、高価なガラス器であってもヒョイと手に取る。とかなんとか考えている内に妻が「これにしたら」。

桂三象さんのオデコにも
随分キス?した