2011年12月4日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(48)

隅田川東岸/本所松坂町公園
文 : 山尾かづひろ 

本所松坂町公園














都区次(とくじ): いよいよ12月となりました。12月といえば赤穂義士の討入りです。今日はJR両国駅から吉良邸跡の本所松坂町公園へ行きたいと思います。 それでは「討入り」のあらましをお話し願います。
江戸璃(えどり):「討入り」の前段階の「松の廊下の刃傷沙汰」に至るまでの「いじめ」の数々はこの事件を題材にした「忠臣蔵」でよく知っているわね。説明が重複するけど元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)、播州赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が、高家旗本(こうけはたもと)の吉良上野介義央に対して江戸城殿中において刃傷に及んだわけよ。浅野内匠頭は殿中抜刀の罪で即日切腹となり赤穂藩は改易となったわけ。遺臣である大石内蔵助良雄以下赤穂浪士47名(四十七士)が翌15年12月14日(1703年1月30日)深夜に吉良屋敷に討ち入り、主君が殺害しようとして失敗した吉良上野介を家人や警護の者もろとも殺害した大事件だったのよ。
都区次:現在の吉良邸跡は武家屋敷としては小さいのですが?
江戸璃:吉良上野介が隠居したのは元禄14年3月の刃傷事件の数ヵ月後で、幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ、代わりに松坂町に新邸を与えたのよ。討入りは翌元禄15年(1702)12月14日だから、1年半に満たない居住だったのよね。隠居したとは言っても屋敷は広大で、東西七十三間、南北三十五間で、面積は約2千550坪(約8400平方メートル)だったとされているわね。明治維新後に江戸中の武家屋敷は官有地と民有地に仕分けされて、この吉良邸の屋敷も跡形もなくなっちゃったのね。昭和9年(1934)地元両国3丁目町会有志が発起人になって、邸内の「吉良の首洗い井戸」を中心に土地を購入し、昭和9年(1934)3月に東京市に寄付し貴重な旧跡が維持され、昭和25年(1950)9月に墨田区に移管されたのよ。現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の八十六分の一の大きさに過ぎないのよ。如何に元の屋敷が広大だったか判るわね。
都区次:現在は墨田区の旧跡としてはっきり残されているわけですが、行事的なものはあるのですか?
江戸璃:毎年12月14日、義士討入りの日には、両国連合町会主催の「義士祭」、12月の第2または第3土曜日・日曜日には両国3丁目松坂睦主催の「吉良祭」や地元諸問屋出展の「元禄市」が開催され、大変な賑わいを見せるわよ。

首洗い井戸










凩や吉良邸跡のなまこ壁  長屋璃子(ながやるりこ)
悴みて吉良邸跡に辿り着く  山尾かづひろ