2012年2月26日日曜日

2011年2月26日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(60)
        山尾かづひろ 読む

■ 尾鷲歳時記(57)                          
        内山  思考  読む

■ 私のジャズ(60)          
        松澤 龍一  読む

俳枕 江戸から東京へ(60)

渋谷川流域/渋谷駅・東側(その1) 
文:山尾かづひろ 
渋谷駅・東側









都区次(とくじ): 「渋谷」の名はどこから来ているのですか?
江戸璃(えどり): 「渋谷川」というニ級河川が名の起こりなのよ。
都区次: 川というからには水源があると思うのですが、どこから流れて来ているのですか?
江戸璃:主なところは新宿御苑や明治神宮の池が水源で玉川上水が完成してからはその余水も流すようにしたのよ。だから「渋谷川」の上流は新宿で、下流は渋谷なのよ。この区間はほとんど暗渠(あんきょ)になっていて現在は見えないけれど、渋谷の駅あたりは山手線の線路と明治通りの間を流れていたのよ。
都区次:場所的に考えると東急百貨店東横店の東館(写真)は「渋谷川」の上のようですが?
江戸璃:そうなのよ。あれは昭和8年に「渋谷川」を跨るように造ったのよ。だから東館には地階が無いでしょ。「渋谷川」の西岸だけでは狭くて敷地が確保できなかったのよ。それで特別に許可をもらって「渋谷川」を跨ぎ対岸も使えるようにしたようよ。
都区次: 「渋谷川」は現在も流れているようですが、渋谷あたりでは川面は見られないでしょうね。
江戸璃:渋谷駅東口の南に高速道路があるわね、そこをちょっと越えた所に稲荷橋という橋があって、その先からちゃんと川面を見ることが出来るわよ。論より証拠、見てみましょう。
都区次:渋谷にあって、これは驚きました。
江戸璃:渋谷は青山学院など近くに学校が多いから駅は受験生でごったがえしているわね。みなさん、がんばってちょうだいね。
百貨店下より流れ出る「渋谷川」












受験子の宮益坂を青山へ 長屋璃子(ながやるりこ)
健在の渋谷川なり冴え返る 山尾かづひろ

尾鷲歳時記(57)

海について
内山思考

やどかりや公案ひとつずつ抱いて 思考

春雨の尾鷲港











海のすぐ近くに住んでいても、海を意識することはほとんど無い。釣りでも好きなら接点もあろうが、僕はもっぱら、魚は食べる物として認識している。漁業が盛んで、交通や運搬も海路に依存していた時代の尾鷲は、町そのものが海を向いていたと言える。しかし陸路が発達し、一次産業が斜陽化すると町は海に背を向けてしまったのだ。 市外の浦々もそれまでは一村ごと独立して賑わっていたが、車社会になるとどこも、交通の便の悪い僻地になってしまった。過疎化が進むのも無理は無い。

東日本大震災から一年が経とうとしている。あの日、僕は山の中の炭焼窯にいた。いい天気なので気持ちよく作業していると、遠くで急にサイレンが鳴り始め、しかも、それが間を置かず鳴り続ける。「何や、あれは?」 M君に聞くが、彼はその日新しい仕事を親方にまかされて、そちらに神経を奪われている様子の生返事。桑名の姉から電話が入った。「そっちは大丈夫?」「何が?」「何って、知らないの?地震で津波が凄いの、もう車が…兎に角大変なの、早くテレビ見なさい」 

だが、山にはテレビもラジオも無い。「Kさんよお、地震かなんかあったのか?」少し離れた隣りの窯のKさんを呼ぶと、ケータイのサイトを開き「ああ、東北で地震があって7メートルの津波が…ええっ」と絶句した。 僕はそれを聞いた時、誤報だと思った。まさか7メートルなんて有り得ない、大災害は歴史的頻度でしか発生しないはずで、こんな長閑な日常に起きるわけがないと。
地震の句が書かれている
ホトトギス

しかし、それは根拠の無い錯覚に過ぎなかったのだ。昭和19年12月7日尾鷲沖20キロメートルを震源とする大地震があり(昭和東南海地震)尾鷲に6~7メートルの津波が押し寄せた。被害は甚大であったが、戦時中であったため報道は最小限に抑えられ、災害地の人々にも箝口令が敷かれたと言われる。手元に昭和20年のホトトギス4月号があるが、その背表紙に「冬雨や小屋立てゝゐる津波跡」の俳句がペンで書かれている。多分、この本の元の持ち主Mさんが当時書いたものと思われる。

私のジャズ(60)

アメリカが輝いていた頃
松澤 龍一

仮のものです。

                      










昔、アメリカでは娘がフランク・シナトラに熱を上げると危ないが、ペリー・コモなら安心と言われていたそうだ。確かにフランク・シナトラはちょっと不良ぽい。(そこが魅力でもあるのだが) ペリー・コモはまさにアメリカの良きパパそのものである。アメリカが一番輝いていた頃のことである。戦後の香りがまだ残っている頃の日本に、白黒のテレビを通じて知らされたアメリカの豊かな生活、「パパは何でも知っている」とか「うちのママは世界一」などのホーム・ドラマで見る大きな家、リビング・キッチン、大型冷蔵庫、一人一台の車、そして陽気なパパ、ママ、高校のダンス・パーティーそしてデート、どれもこれもお伽の国の出来事であった。冷戦や人種差別を陰の部分としてもつにせよ、あの頃のアメリカは人類がこの地球上に築き上げた最大の楽園と言っても言い過ぎでは無いように思える。

ペリー・コモ・ショー、16年続いた長寿番組だった。日本でも放映されていた。ペリー・コモの温厚な語り口、ふくよかな歌声、どれをとっても、今の時代では刺激的ではないが、なにか心が温まる番組であった。アメリカのショー・ビジネスで活躍している芸人や、時々、出演するジャズ・プレーヤーに触れるのも楽しみの一つだった。

下記音源は1954年のペリー・コモ・ショーの一場面である。出演の男性はみんなきちっと頭を分け、スーツにネクタイ、女性はワンピースと、実に時代を感じさせてくれる。あの頃はジャズ・ミュージシャンでもステージは全員スーツにネクタイであった。1954年と言えば、その一年前の1953年にメンフィスでエルビス・プレスリーが初録音をしている。時代はロックに雪崩打つ直前であった。