2013年9月22日日曜日

2013年9月22日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(142)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(139)
       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(142)

山手線・日暮里(その42)
根岸(上根岸82番地の家(26)「子規庵」)
文:山尾かづひろ 

東大寺の鐘










都区次(とくじ):子規は明治28年10月22日から30日まで大阪に滞在し、その間の3日間で奈良を訪れました。奈良で子規というと「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句が思い浮かびます。柿は手で剥けないので、この場合、法隆寺のどこで食べたのだろう。茶店で柿を剥いて供していたのだろうか?親子連れのピクニックよろしくナイフ持参だったのか、と思ってしまいますが?

東大寺近くの旅館秋の暮 小熊秀子

江戸璃(えどり):子規の書いた随筆「くだもの」の中の「御所柿を食ひし事」の項にこの句の生れた背景が書かれているのよ。子規は明治28年10月26日奈良に行き旅館角定(かどさだ)に泊り、漱石に借りた金子10円は当地において使い果たしたと手紙を出しているわね。

ある夜、夕食後に御所柿を所望する。たくさん持って来いとは言ったが下女は錦手(にしきで)の大丼鉢に山の如くに柿を盛ってきた。柿好きの子規も驚いた。下女は包丁をとって柿を剥いてくれる様子である。暫しの間は柿を剥いている女のややうつむいている顔にほれぼれと見とれていた。この女は年は十六、七位で、色は雪の如く白くて目鼻立ちまで申し分のないように出来ている。生れは何処かと聞くと、月ヶ瀬の者だというので梅の精霊であるまいかと思った。剥いてもらった柿を食べているとボーンとどこかの鐘が聞こえてきた。それは東大寺の鐘であった。

翌日、子規は法隆寺へ行く。そしてこの句が生れるのよ。下五を「東大寺」としていたら「法隆寺」のような余韻は生れなかったわよ。この句は実と虚の見事な融合からできた句よね。
都区次:ところで今日は日暮里からどこへ行きますか?
江戸璃:湯島辺りで甘いものが食べたくなった。行ってみない?

湯島聖堂









歩み来し聖堂の辺に秋意かな  長屋璃子(ながやるりこ)
甘味屋へ背より入りたる秋扇  山尾かづひろhttp://gendaihaiku.blogspot.jp/2013/09/142.html

尾鷲歳時記(139)

一週間の出来事 
内山思考 

過去にのみ人の集まる法師蝉 思考

病院の窓に広がる名古屋の街
新幹線もよく見えた









先週末に義兄の三回忌があり、妻と共に桑名へ行った。最近、少し秋らしくなったと喜んでいたら何が何が、残暑の焼け木杭に火がついたような一日で、冷房の効いた室内を出てお墓に勢揃いした一同は汗だくになった。けれどもツクツクボーシの鳴く中、お坊さんは平然としておられる。暑さで煮えかけの脳に「汗ばまずからりとおわす老師かな」の句が浮かび、虚子だったかな?この猛暑は台風の影響かな?などなど考える。真新しい墓碑が鏡のように四面を映し出していて美しい。

しかし本当に優しい義兄だったのである。その笑顔を思い出すだけで僕の心は和むのだ。やがて線香の香りが辺りに漂い始めると、母と同じに若くして夫を失う事になった姉は、熱中症が心配だから幼い孫たちを日陰に連れて行け、としきりに息子夫婦に言うのだった。その夜は身内だけで湯の山温泉へ一泊、僕は都合四回(夕方、食後、深夜、早朝)大浴場へ通った。

長湯はしないが温泉は大好きなのである。明くる朝、僕だけ早立ちで西宮市へ向かったのは第三日曜日で風来の句会があるから。台風が本土に接近中なのが気になるが、今日は尾鷲ではなく桑名へ帰る予定だから、遅くならなければ大丈夫との判断である。そして句会を無事終了して西宮を出たのが午後5時、名神高速に乗って京都は桂川を越える頃、雨と風は激しさを徐々に増していた。
姉の大事な話し相手
ラム嬢
週が開けると今度は妻の入院の日が近づいた。名古屋の病院で大腸ポリープを除去してもらうのだ。良性で手術は簡単なものだとのことだから安心である。手術の前日に妻を入院させたあと、桑名に戻って姉と夕食を食べていると、妻からメールが入った。「お月さんみて見よい(見てご覧なさい)キレイやで」・・・ああ、そうや今夜は十五夜なんや。僕は熱い汁物で火傷した口中を水で冷ましながら、妻が高階の病室の窓から、一人で満月を見上げているところを想像したのであった。