2011年9月18日日曜日

2011年9月18日の目次

俳枕 江戸から東京へ(37)
             山尾かづひろ   読む
尾鷲歳時記 (34)                          
                   内山  思考    読む

私のジャズ (37)          
                  松澤 龍一     読む

俳枕 江戸から東京へ(37)

深川界隈/深川江戸資料館 ・ 雲光院
文 : 山尾かづひろ 
深川江戸資料館









都区次(とくじ): 次は霊厳寺の南側にある深川江戸資料館へ行ってみましょう。
江戸璃(えどり):この資料館には天保の終り頃(1842~1843)の深川佐賀町を想定し、大店・白壁の土蔵・裏長屋・漁師小屋・火の見櫓・猪牙舟(ちょきぶね)などを撮影のセットのように復元してあるわよ。
都区次:次は資料館の東の雲光院へ行ってみましょう。この寺も江戸の中心から深川へ来たのですか?
江戸璃:雲光院のホームページによると家康の側室の阿茶局(あちゃのつぼね)の菩提寺として慶長16年(1611)に日本橋馬喰町に開創され、局の法号「雲光院」が寺の名前になったそうよ。その後、明暦3年(1657)の大火で神田岩井町に替地になり、天和2年(1682)に現在の深川に再び替地になったというわけ。
都区次: この阿茶局は、どういう方ですか?
江戸璃: 武田氏の家臣・飯田氏の子として甲府で生れ、今川氏の家臣神尾忠重に嫁いで、忠重の死後は、家康の側室になったのよ。
都区次:それにしても、この宝篋印塔の墓の立派さは何ですか?
江戸璃:武家出身の女だけに、馬術や武芸にも優れ、才知もあったので、側室でありながら、家康の懐刀として信頼を得、慶長19年(1614)大阪冬の陣では家康の使者として淀君方に面接して和議に尽くしたわけ。決定打となったのは、二代将軍と正室(NHK大河ドラマで有名な「江」)の娘・和子の入内(じゅだい)の折には母親代りとして随行し、天皇家からも信頼を得て、「従一位」に叙せられたことね。老後は雲光院と号し、寛永14年(1637)1月22日、83歳にて死去し、雲光院に葬られたのよ。
都区次:ハハアー、よく分りました。それにしても江戸璃さん、何か言い足りないような御顔ですが?
江戸璃:家康には15人の側室が尽くしていたと言われていて、阿茶局によく似た名前の茶阿局(ちゃあのつぼね)という側室がいたのね。この茶阿局は初めは遠州金谷村の鋳物師の妻であったものを、美人であることから土地の代官が横恋慕し、夫を闇討ちにするという事件が起きたのよ。茶阿局は3歳になる娘をつれて浜松城に駆け込み、家康に訴え代官は処罰されることになったのね。この件が契機で家康は彼女を側室にしっちゃったのよ。茶阿局は才知にたけていたため、家康の寵愛を受け、奥向きの事を任され、強い発言力と政治力を持ったと言われているわね。墓は小石川植物園の前の宗慶寺にあるわ。ちなみに宗慶寺は私の家の菩提寺なのね、そのうち廻りましょうね。

雲光院・阿茶局の墓












うつた姫坐すには狭き漁師小屋  長屋璃子
               (ながやるりこ)
側室の宝篋印塔墓秋の風   山尾かづひろ

尾鷲歳時記 (34)

大騒動現世顔型の2
内山思考 

 落武者の裔かも知れず八頭  思考 

23年前の思考マスク












少し太めのストローを使っているので、ゆっくり呼吸していれば息苦しさを感じない。 これだったら上手く行きそうだな、と安心して静寂を楽しんでいると、妙な音がし始めた。 「ググッグググッ」 「ググググッ」 妻が必死に笑いを堪えているのだ。 緊張の糸が一気に切れて僕は噴き出した。 「ぶぶぅ」 まだ固まる前の石膏がボコボコと泡立った。

万事休す、と思った瞬間、 「笑うなっ!」 バチンと妻が僕の太ももを叩いた。自分が笑っておいて人に笑うな、も無いもんだが、この一打のおかげで、笑魔は退散し、元の平穏が訪れた。 プルルル…、 今度は電話だ。妻が立って行く気配。 「ハイハイ、あーいつもお世話になってます。ハイ、おります…が、ちょっと手が、顔が離せませんので、イエ、ハイまた後ほど」とか何とか言っている。 「あと十分」 ああもう少しだ。

安心したが待てよ、顔がだんだん熱くなってくるではないか。そうだ、石膏は固まる際に発熱するのだ。しまった、熱い、熱いぞオイ、まだかよ。もう耐えられない限界だ。その時、 「ハイおしまい」とタイムアップ、ホッとして凹型を顔から離そうとしたが、 「痛い痛い」 次の試練が待っていた。

第二句集では子規を
気取ってみた
眉毛とまつげ、少し伸びた前髪と鬢が石膏と一緒に固まってしまったのである。これは救急車を呼ばねば、と焦ったが、妻がハサミを隙間に差し込んで毛を切ってくれ、後は、エイままよ、と引っ張ると、 ブチブチッと音がして痛みと共にあたりが明るくなった。この世に戻った気がした。 眉毛、まつげは失ったが、温熱効果なのか顔はスベスベになっていた。

私のジャズ (37)

えっ、日本人
松澤 龍一

Blues for Tee (TBM CD 1852)













最初、聴いたときはびっくりした。えっ、これが日本人! 
黒人よりも黒く、ブルース(正確にはブルーズ)よりもブルースで、体から湧き出る躍動感、とても味噌汁とおしんこと米の飯で育った人間が生み出す音楽では無い。

山本剛と言うジャズピアニスト、佐渡生まれのどこを切っても純粋の日本人である。私が大好きな黒人ピアニストのウィントン・ケリーを彷彿とさせる。名前を言わずに聴かせたら、多くの人がウィントン・ケリーと言うに違いない。ジャズと言う音楽は、このように、人種、民族、国境を越えて広がっていたんだと、なにか嬉しい気持ちになる。


ジャズを聴き始めの頃、白木秀雄が日本のジャズと称して、ハッピ姿で和太鼓を叩いているのを見て、大きな違和感を感じ、それがトラウマになり日本人プレーヤーの演奏はほとんど聴いていない。従ってライブ演奏にもほとんど行かない。もっぱら残された音盤で楽しむ変ったジャズファンである。

ジャズがコンテンポラリーなものであるとすれば、これは邪道であろう。でも、邪道で良いと思っている。ブラスバンドの延長のようなものを聴かされるより、音盤に残されたサッチモやパーカーやコルトレーンの方がはるかに良い。でも、この山本剛、生で聴いてみたい唯一のプレーヤーである。