2011年4月3日日曜日

2011年4月3日の目次

永田耕衣 × 土方巽 (9)     
                 大畑   等   読む
俳枕 江戸から東京へ(14)   
                 山尾かづひろ   読む
I  LOVE  俳句 Ⅰ-(11)        
                 水口 圭子    読む
尾鷲歳時記  (11)                          
                   内山  思考    読む
私のジャズ (14)          
                  松澤 龍一     読む
楽屋口から(2)-野村万作の狐
                  土屋 秀夫    読む
季語の背景(5・鞦韆)-超弩級季語探究
                  小林 夏冬    読む

永田耕衣 × 土方巽(9)

大畑  等


耕衣の運動 ―〈茶化し〉

耕衣書 正法眼蔵山水経 ※20

















もう十年と少し前のこと、船橋で「おおいと」という句会に参加していた。そのなかのメンバーの一人、徳永希代子さんは耕衣主宰の「琴座」(リラ座)同人。彼女から句集『櫻麻』(さくらお)をいただいた。

驚いたのは永田耕衣の序文であった。私の付箋がその句集にまだ残っている。「耕衣、必死で書いている 涙無くして読めぬ!」「永田耕衣の必死が造語を生むのだ。」とメモ書き。

今、その付箋を読み返しても、私の思いは変わらない。この序文は白隠禅師の画賛と墨跡のことから始まる。続いて白隠禅師作の「道謡」とくる。道行「お夏清十郎」を擬した法話と思えばよい。白隠の文を、耕衣は長々と引用して(止まらなかったのであろう)自身の俳句観を書く。

―《人生の危機の魅力》は時々刻々の《魅力》でありつつ、常住《生死》に関わる《無常》の《美》である。ソレは創造としての《奇襲》表現の品位、その妖気の不可思議を糧としてコノばあい、《俳句文学》を現成する。(後略)※19

そして徳永さんの句の紹介に移るが、出だしを引用すると、

―徳永希代子コタビの新句集『櫻麻』(さくらお)の句句に瞠目すれば、妙にもカカル《怪笑》寄りの《不可思議》に出遇う《有時》にめぐまれるようだ。(後略)※19

句の紹介は作者に沿いながらも換骨奪胎ありで、縦横無尽の体。ときどき仏教用語を交えながら、テレビの「女性のアナウンスの語調テンポ」にまで話が及ぶ。だが、団扇をくるっと回したように、柳宗悦からシンラン(親鸞)、一休、岸田劉生となだれ込む。また一転して徳永さんの句の紹介になる 

山姥も人恋しさに真綿引く  希代子

虎が獲物にとびつくように、耕衣の解説が始まる。

―自己《奇襲》的な《茶化し》が目立って面白い。ソレは《自受用三昧》でもあろう。(中略)能楽「山姥」は幾たびも観たが、《人生》の地獄極楽一如の極美地獄ではなかったか、と思い出す。《人恋しさに真綿引く》と「山姥」を見ぬいた希代子は、《俳句》を《人恋しさ(ナツカシサ)》故に作っていると思う。《俳句》は《人生愛》のエロチシズムに於いて存在する、いわば句的哲学であると野老は思い定めている。ソレは《人生》の《危機愛》にアソビ込む志向の好み方をいうに等しいテツガクでもあるからだ。そのアソビ方に《極美》的快感が恵まれるのだ。 ※19 

ほとんどの俳句結社の主宰の序文は、読むほうが恥ずかしくなるほど美辞麗句を並べる。主宰は人生の達人なら、弟子は非の打ちどころのない生活者という具合である。もううんざりして序文などに期待していなかった私であったが、耕衣は違った。一所懸命、汗して書いている、と思ったのだ。一弟子の序文に耕衣の名著『一休存在のエロチシズム』と同質の文体と、そして同じ熱意を感じとるのだ。

この序文にはテーマの運び、強調の《 》、そして、言葉は遅い!とでもいうようなカナの使用など、耕衣の運動があますことなく感じられる。耕衣の汗を感じてしまうのだ。

耕衣の句集『而今』は道元の『正法眼蔵』の「山水経」からとっている。

―而今(にこん)の山水は、古仏の道現成なり。ともに法位に住して・・・・・・

『正法眼蔵』を、私は語意を深く考えないで読んできた。いわゆる読み散らかし、という読み方である。その道元を耕衣は「道元さんの文章は、威厳があり過ぎて近寄りにくいということがありますが、私は道元さんにはユーモアというものがあると思うんですね。」と言う。

道元にユーモアを見る、とは今まで誰が言ったであろうか。耕衣のこの発言は道元という運動体のことでもあるのだ、と思う次第。私は、道元を周期的に読み散らかしてきたが、実は、道元の運動を楽しんでいたのだ。

道元のユーモアに対して耕衣は〈茶化し〉を掲げ、これを「諧謔二字の深化俗化的代名詞」と言う。春陽堂刊の『永田耕衣』の対談で、村上護の、〈茶化す〉は運動であり、「般若心経」の空に近いものか?との問いに耕衣はこう答える。

―近いというより全く同質の空です。諧謔ということが、本質的に俳諧の世界に一本通っていますね。それを俗にまでぶち破ると〈茶化す〉という言葉になる(後略)。

「般若心経」や「空」のことはここでは立ち入らないでおく。それよりも白隠、盤珪などの近世の禅僧と禅文化との係わりを重視したいのである。また耕衣偏愛の俳人・上島鬼貫も禅の人であり、盤珪ともども耕衣が生まれ育った土地の傑物である。

さて今回の稿は、今後どのように展開するのか?書きながら一向に見当がつかないでいる。されば耕衣の句を一句、

  近山が唇吸い合うや桃の花   冷位

道元『正法眼蔵』の「山水経」にある「青山常運歩」(山は歩く)にエロスが加わった一句である。

そして一枚の禅画。伊藤若冲が描いた達磨図。

ギッター・コレクション展より

















禅宗の開祖の達磨、面壁九年の座禅を行じた達磨は江戸時代中期の京の絵師・若冲によって、このように描かれた。「脚下照顧」なのであろうか?達磨の目の運動に注目。「諧謔とは〈茶化し〉である」、真理はそのことによって「人間の基本的な卑俗の世界」に入っていける、と。耕衣の俳句に通底するものがある。                                     (続く)
※19 徳永希代子句集『櫻麻』 琴座俳句会刊 より
※20 『永田耕衣書画集』 永田耕衣書画刊行委員会 より

俳枕 江戸から東京へ (14)

佃島界隈/月島
文:山尾かづひろ
石川島灯台


都区次(とくじ):勝鬨橋を渡ると月島です。現在の月島は「もんじゃ焼」で有名です。月島と佃島は一体になっていますが、どこがどう違うのですか?
江戸璃(えどり):佃島自体はそもそもあった島を埋め立てて拡張した島で、月島は明治20年代から行われた浚渫工事で出た土砂を埋め立てて出来た人工の島なのよ。
都区次:明石町より対岸の佃島・月島を見ると和式の灯台が見えますが何ですか?

江戸璃:佃島の北側は造船所で有名だったけど、その前は「鬼平」こと長谷川平蔵の開いた「人足寄場(にんそくよせば)」と呼ばれる犯罪者の更生施設があってね、そこの入所者によって作られた「石川島灯台」で、品川沖を行く船には喜ばれたそうよ。ただし現在見えているのはモニュメントだけどね。
都区次:その「石川」という名前は何ですか?
江戸璃:徳川時代に石川重次という旗本が島の端に屋敷を構えて大変珍しかったので、そう呼ばれたそうよ。

都区次:この月島地区には高層マンションが林立していますが?
江戸璃:幕末以来の石川島播磨重工の大造船所が昭和54年に他の場所に移転したのよ。それが折からのマンションブームで跡地に「おっと来た、おっと北野の天満宮」という具合にニョキニョキと建っちゃったのよ。














佃へと渡る大橋鯊日和     大矢白星
少女等の透ける夏服もんじゃ焼 山尾かづひろ




I LOVE 俳句 Ⅰ-(11)

水口 圭子


この度の東北関東大震災でお亡くなりになった方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。そして、被災された皆様に心よりお見舞いを申し上げます。


 メンデルの葡萄の木より剪定す  時田陶子

「メンデルの葡萄の木」とは、と不思議に思い調べてみると、東京の小石川植物園に現存すると知り、おそらく作者は実際にその木に出会ったのであろうと頷く。

遺伝の根本的法則「メンデルの法則」のメンデル(1822~1884)はオーストリア生まれの修道僧で、晩年はチェコのある修道院の運営責任者になった。彼はその修道院の醸造所で味の良いワインを造るため、葡萄の品種改良を行い、農園で栽培していた。

大正2年(1913年)、東京帝大の三好教授がチェコに行った際に、現地でこの木を知り枝分けをして貰って来た。後年チェコの原木が枯れてしまったので、平成4年(1992年)に日本の「メンデルの木」から分枝して送ったという経緯がある。

さて、我が佐野市の隣、足利市の北部にもワイン醸造所がある。発泡酒が2000年の九州沖縄サミットの晩餐会の乾杯用として採用され、一躍有名になった、ココ・ファーム・ワイナリーである

ココ・ファーム・ワイナリーは、知的障害者更生施設「こころみ学園」のワイン醸造所である。約30年前、知的なハンディを持つ人達の自立をめざして作られ、現在90名が働いている。「こころみ学園」の原点は、1950年代に特殊学級の中学生達によって開墾された葡萄畑だが、平均斜度38度のこの葡萄畑は、耕運機やトラクターが使えず、人間の足で登り降りするしかない。全体力を使う汗まみれの重労働の中で、知的障害者と言われる人達が、美味しいワインを造る担い手としての誇りを持って、慎ましくのびやかに生活している。

昨年、2代目の施設長の話を聞く機会があった。その話の中で印象に残ったのは、知的障害者の家族には、その子が「可愛くて可愛くてたまらない」というのと、「重荷で仕方がない」というのと、2種類あるということだった。幸、不幸の何れかは明白であろう。事実私も、強い絆で結ばれ和やかに暮らす障害者の家族に何度か出会っている。

ワイナリーに併設するカフェ・レストランでランチを頂いている時、葡萄畑の天辺から、カラス追いの鉦を叩く音が聞こえて来たのを思い出す。

私のジャズ(14)

再び、コルトレーン 
松澤 龍一

JOHN COLTRANE LIVE IN JAPAN
(impulse MVCI-23019-22)CD












ジョン・コルトレーンが彼の新しく編成したクインテットとともに来日したのは、1966年夏のことである。私が大学に入りたての頃である。大手町にあった産経ホールに聴きに行った。新しいクインテットに何の予備知識もないまま聴きに行ったわけである。この新しいクインテットの演奏は、確かヴィレッジ・バンガードの実況録音盤が一枚だけ発売されていただけで、ほとんどの聴衆がどのような演奏になるか皆目分からないまま、コンサートに来たはずである。

衝撃的なコンサートであった。これほどまでに衝撃的なコンサートは後にも先にも無い。聴衆のすべてがそう感じたに違いない。幕が開くと、ステージにはドラムスとピアノ、それにベースがぽつんと置かれている。ベーシストのジミー・ギャリソンひとりがステージに現れ、ベースを弾き始める。これが延々と続く。10分以上も続いた頃、やおらテナーサックスを抱えたファラオ・サンダースが現れ、ラッシッド・アリがドラムスに座り、アリス・コルトレーンがピアノにつく。そして、コルトレーンのソプラノサックスが聞こえ始める。ぶつぶつと泡のようにあふれ出る音、継続するビート、いつ終わるともしれない音の洪水、永遠に、永遠に。ジャズあるいは音楽の概念を完全に飛び越えてしまった「何か」としか言いようのない音の塊。当時、コルトレーンはインド音楽に傾倒していた。彼はインドの音楽に永遠なるものを感じ、それを表現したかったのだろうか。演奏が進むにつれて、かすかに馴染みのメロディーが聞こえてくる。あの My Favorite Things だ。1時間弱の演奏が終わる。ワンステージ一曲と言う異例のコンサートであった。この衝撃的な東京コンサートの後、一年後の1967年、コルトレーンは永い眠りに付く。

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追加掲載(120104)
一曲小一時間かかった演奏のほんの最後の部分です。

尾鷲歳時記(11)

恋の力、歌の力 
内山 思考


 春愁や巻かれてみたい渦がある   思考


夕闇迫る八鬼山遠景 熊野古道の難所だった















「尾鷲よいとこ朝日を受けてヨイソレ 浦で五丈の網を引くノンノコサイサイ…」 ヤサホラエー、ヤサホラエーの囃子で歌い出される尾鷲(おわせ)節は、もともと、漁師たちの舟歌だったが、それに道中唄の「なしょまま節」が加わり、今の形になったと言われる。大正六年に「尾鷲節」としてレコード化され、昭和二十九年、産経新聞主催・都道府県対抗民謡大会で好成績をおさめ、一躍、全国的になった。

哀愁を帯びたメロディーは、根っからの尾鷲っ子でない僕の胸にも染みる。特に好きなのは、「ままになるならあの八鬼山をヨイソレ 鍬でならして通わせるノンノコサイサイ」の部分だ。 これを男の気持ちだと言う人もいるが、やはり女性が男を通わせる、とするのが正解だろう。女性の情念はそれほど強いのだ。

ところで、沖縄の琉歌にも 「恩納岳あがた 里が生まれ島 もりもおしのけて こがたなさな」というのがある。 里(サトゥ)は恋しい男、島は村、山の向こうの村を森を押しのけてでもこっちへ引き寄せたい、というブルドーザー並みの恋心である。 「ムインウシヌキティ クガタナサナ」 沖縄のイントネーションで口ずさむと、一途な想いがよく伝わってくる。

一途な想いと言えば、僕の知っている沖縄の小父さんは、むかし好きな娘がいて、自転車で三時間もかけて通い詰めたそうである。うまく話が出来た日は鼻歌混じりで風のように帰ったが、そうでない時は、情けなくて泣きベソをかきながら自転車を押したもんだ、と笑う。
小父さんに貰った三線(修理中)









 その娘と連れ添ってはや半世紀、先日、那覇の自宅にお邪魔すると、三線を弾いて夫婦仲良く唄ってくれた。

楽屋口から(2)野村万作の狐

野村万作の狐
土屋秀夫


裸の能舞台に老狐が一匹。屋根の方に背を反らせて「くゎーい」と一声。すると能舞台はたちまち荒野となり、つり屋根は消滅。中天に煌々として月がでる。名優の力は月の荒野に見るものを誘い出す。老狐の眷属は次々とわなにかかって猟師に殺された。・・・だが、わなの餌を食いたくてたまらない。恨みと欲にとらわれた獣の悲しみを「くゎーい」と叫ぶ。

近代の俳優はめったに獣を演じることはない。その力技を生み出すのは伝統の力である。万作さんは自ら新しい型、「月に吠える」を生み出し、その形に肉体と精神を押し込んで行った。板の上から体を伸ばすようにして、中天の月に届けとばかり「くゎーい」と一声、白い狐面をつけ、重い衣装を着けて声を振り絞る。獣になりきった人なのか、人が獣なのか・・・客席は静寂に包まれる。月に照らされた薄の原を風が吹き抜けていく。

一般的な演劇では人間が人間以外の役を演じることは少ないが、古典、能・狂言・歌舞伎なら鬼、獣、亡霊などは得意科目だ。狂言では蚊の精などというのもあるぐらいである。こうした人間以外のものを演じきるには近代の俳優術ではこなしきれない。

リアリティーを金科玉条に自然な身のこなしを最も強く求めたのはアメリカ映画だろう。銀幕で見る映画俳優の演技というものが世界を席巻してきた。伝統の型にはまった演技は古臭いものとして敬遠されがちである。しかし人間以外の精霊を演じたりする古典劇では、独特の発声法や腰を落とし、すり足といった肉体表現が必須である。

舞踊家の田中泯が映画『たそがれ清兵衛』などに出演し俳優を超えた存在感で見るものの度肝を抜いているが、これなども近代の俳優術とは全く背景が違うところに成り立っている表現だ。古典の身体表現の根底には踊りの要素があると考えるのは私ひとりだろうか。

舞踊は(自然な)リアルな動き、いわばほって置けば緩んでいく身体しか持っていない我々から無駄な動きをそぎとって、残った抽象的な動きである。抽象的な肉体を持つ者が始めて狐を演じることが出来るのである。

1993年秘曲『釣狐』の最終公演を終えた万作さんは狂言の王道である太郎冠者をこれからは演じていくと話していた。しかしその後も狐に取り付かれるようにして「釣狐」を何回か舞台に乗せている。

季語の背景(5・鞦韆)-超弩級季語探究

小林 夏冬


鞦韆   

老いて郷愁を呼ぶものにぶらんこがある。日本では都会であると地方であるとを問わず、どこの公園にもぶらんこのないところはまずない。ぶらんこ、滑り台、砂場、水飲み場、ベンチ、公衆トイレは公園の六点セットというところで、トイレでちょっと脱線すると、中国のトイレは話には聞いていたがあれには改めてびっくりした。こういったからといって、私は中国をそんなに知っているわけではないから、物知り顔していえないけれども空港、ホテル、あるいは料理店内など、都会は日本と同じだからいい。しかし、地方のトイレになると話はまったく別で、二千一年現在の蘇州駅でさえ、トイレは大のほうでも低い囲いしかなく、しかも通路と平行して設置されているから、尻を丸出しにして溝を跨いでしゃがむ姿が、ぞろぞろ歩く人から丸見えになってしまう。馴れてしまえばそういうものさ、と思って別に抵抗もないのだろうが、私にそこへ入って用を足せといわれたら、たぶんご遠慮申し上げるしかない。

一口に駅のトイレといってもいろいろあるだろから、私が眼にした蘇州駅のトイレはたまたまで、同じ蘇州駅でも他のトイレはちゃんとしており、私はそれを知らなかっただけかも分からない。いずれにしても同行のご婦人たちはさすがに恐れをなしたと見えて、一旦は改札口までいったが、やはりこのあと果たしてトイレがあるかどうか、それが心配だったと見える。迷いながら何人か誘いあった末、いい経験じゃない、これも話の種になるわと、笑いながらぞろぞろ行った。これもみんなで渡れば恐くないとか、旅の恥はなんとやらに通じる口だろう。ご婦人とは難儀なものである。

同じ蘇州でも、拙政園の駐車場にあった公衆トイレに至っては、外壁はあっても中のドアは見事なまでになにもなし、大と小の間には腰板程度の仕切りだけ、大のほうはまん中に溝があって、そこへ何人でも跨いで、座って落とす仕掛けになっている。個室式になっていないから駐車場からも丸見えで、私などは死ぬ思いの時でない限り、そこへ座り込む勇気はない。クリークだか何だか知らないが、その岸辺にあるから、そこへ流れ込むようになっているのだろう。そう考えるのが必ずしも邪推とはいえないから、現地のガイドは外出するとき、ティッシュは必需品ですよと念を押す。しかし、ティッシュが必需品である前に、ホテルから一足でも出たら、そういうところへゆかないで済むようにするのが、中国の旅の心得というものだろう。

いきなり尾籠な脱線の仕方をしたが、現代中国の実態を垣間見せられた思いがする。中国も国際社会の仲間入りをしてゆくに従って、こういう風景はいずれ、見たくとも見られない時代になってゆくだろう。私が生まれた長野では戦後になってもおばあさんなど、庭先で立ち小便していたくらいだから、そういう点ではかつての日本も現代中国と大差ないといえる。いまの若い女性には想像もつかないことであっても、戦前戦中、あるいは戦後になっても、日本の田舎では女の立ち小便が、特別に奇異な眼で見られるということもなく、日常の風景であったわけだが、いま、中国のそんなところを見たりすると、日本に生まれてよかったというのが正直な感想である。

話はどんどん飛んでしまうがこれも脱線ついでにいえば、中国でよいと思ったのは街路樹の剪定をせず、茂るに任せていることで、日本のチマチマ刈り込んだ街路樹を見慣れたものにとって、それも新鮮な風景だった。上海のような大都会でもそうだから、交通信号が見にくくて危ない、という気がしないでもないが、現地の人たちは一向に気にする様子もない。だいたい、街路樹のそもそもの起源は西域からの旅人に、休憩のための日陰を提供することにあったのだから、交通信号がよく見えるように、交通事故防止の観点から必要である、ということで刈り込んでしまうほうが邪道といえる。

とはいっても現在の東京に、街路樹の剪定は必要だろう。ところが蘇州市街でさえ入ってから抜けるまで、交通信号は二つしかなかったから、街路樹の剪定はこちらでは特別に必要ないようだ。両側からプラタナスの枝が道の中ほどまで張り出して交叉し、そこへ蒲団や洗濯物やら、上着やズボンがたくさん干してあって、道そのものがひどく狭く感じられる。私はそういう風景から現地の人たちの脈拍や、体温のようなものを感じ、胎内を漂っているような奇妙な感覚にずっと囚われていた。

そんな蘇州で目にしたものに崩れかかった土塀があり、そこを家鴨が群をなして歩いているという、なんとも牧歌的な風景で、郊外に出ると河に沿っていくつも家鴨牧場があり、家鴨ががあがあ鳴いていた。あと、目についたのは上海などで、物干し竿を突き出していて、日本のように物干し竿を窓と平行にするのではなく、突き出しているから、取り込むときは竿の先につながっている紐を引くと、竿が立って洗濯物が自動的に、手元へ纏まる仕掛けになっていた。ただ、あれでは干すときどうやって干すのだろうか、という素朴な疑問がある。

そんなあれやこれやがあるとしても、少し前まで中国について回った、「眠れる巨人」という実感を、それこそ皮膚で感じさせることに畏怖の念があるし、旅行者の目から見た中国はそれなりの魅力がある。どこへいっても懐旧の念に似た、一種の安らぎのようなものがあるのは事実だが、はっきりいえば私は、現代中国の首脳部は嫌いである。それを象徴するものが小泉首相の靖国参拝を、「お止めなさい」といった言葉で、私が問題にするのは靖国神社参拝の可否ではない。一国の首脳が他国の首相に公の発言として、「お止めなさい」などと指図するのは、なにを考えているのかという思いが先に立つ。

どうしてもそれをいいたいのであれば、「中国としては承服できない」というべきだろう。そういういい方ならば内政干渉ではなく、抗議というべきものだから、事の当否は別としてこちらも納得できる。だいたい、最初のころ中国首脳は、靖国神社参拝に対してなにもいっていなかった。それが日本の首脳があまりにも情ないことに、ちゃんとした原理原則がなく、ぺこぺこ謝ってばかりいて、謝ればすべてことが済むと考えているのだろうか。戦後賠償はしなくとも、それに代わるものがどれほどかの国に渡っているか、その後の日本人がどれほど反省しているか、そういうことは一切無視して、謝れば謝るほどそれにつけ込んで威丈高になるのは対人関係、対国関係の別はない。過去の反省は必要だが、その上でどうするかという確たる思想がないから、半世紀を過ぎたいまもなお、政府要人がぺこぺこしているのを見ると、自分も日本人であることが嫌になってくる。

前置きはとにかくここは鞦韆がテーマである。そのぶらんこは別名秋千、ふらここ、ゆさはり、もう少しマニアックになるとふらんど、半仙戯、擬半仙などという。講談社『日本大歳時記』は、「古来中国では鞦韆と言って寒食の節の宮嬪たちの戯れとした。盛装の宮女たちが裾をひるがえして戯れるところに、艶なるエロティシズムがただよい、漢詩には春の景物として詠まれている。蘇東坡の『春夜』の詩、『春宵一刻値千金、花有清香月有陰、歌管楼台声寂寂、鞦韆院落夜沈沈』が、この語を春の季語とした理由で『滑稽雑談』に春の季語として掲げている」としている。詩というベールを通して見ると何事も、「艶なる」という形容詞そのものになるが、詩の分野では先に述べた、トイレの実情などかけらも出て来ない。しかし、人間も生物である以上、そういうものが詩の裏側に存在するのは紛れもない事実である。

なにやらすっかり臭い話になってしまった。小学館『日本大百科全書』「ぶらんこ」の項は、「古くはゆさはり、ゆさぶり、のちにぶらこことも呼ばれた。揺れ動く状態を表した言葉で、ポルトガル語のバランソが語源ともいう。古代ギリシャなどでは春が訪れると、性的な生産の意味や豊作のまじないに、女性がこれに乗って動かす習俗があった。中国では春の季節、寒食に長い縄を高い木にかけ、横木の両端をその二本の縄で釣り、女子がこれに座して揺り動かして遊ぶ行事があり、唐時代には玄宗皇帝が羽化登仙(人間に羽が生えて仙人となり天に登ること)の感を味わう、という意味から半仙戯の名を与えた。朝鮮ではクネといわれ、端午の日に女子の成年儀礼として行われる。日本にも渡来し、平安初期に宮中でも盛んに行われた。承平年間の源順の著、『倭名類聚鈔』には『和名由佐波利、綏縄を以って空中に懸け、以って為す戯なり』とあり、嵯峨天皇の鞦韆の詩にも、当時の貴族階級間での流行ぶりが示されている」とある。

羽化登仙とは前記引用文でいい尽くされているが、この括弧で括った文章は私が足したものではなく、原文のまま転記した。広辞苑では羽化登仙を「中国の古い信仰で、人間に羽が生えて仙人となって天に登ること」としている。しかし、この羽化登仙にはなにもかも忘れてうっとりすること、という裏の意味もあり、中国文学などで「羽化登仙の境に遊ぶ」とか、「雲雨に遊ぶ」などといういい回しは、男女の睦みごとの代名詞にもなっていて、その代表的なものが軟文学の傑作として、日本でも広く知られている『金瓶梅』である。著者は不明で、それを翻案した主人公が世之介ということになる。この『金瓶梅』に登場する西門慶はその方面のエキスパートだから、それを翻案した世之介も女にもてまくる男、女タラシということになっている。子孫繁栄を願う意味を籠めたまじないであれば、そちらのほうが正しい解釈であるといえよう。玄宗がどちらの意味で半仙戯と名付けたのか知らないが、たぶん羽が生えた仙人となって天に登るほうだろう。

「ぶらんこ」の語源である「バランソ」が、ポルトガル語であるということは、そこが発祥の地なのだろうか。英語でいえばバランスだろうと思うが、そもそもは豊作を願う農事儀礼が東へ、東へと伝わるうち、本来の豊作祈願から少し外れ、子孫の繁栄を願うという、いささか卑猥な意味合いを帯びつつ中国北部に至り、次第に南下しながら遊戯化したものと思われ、さらに朝鮮に伝えられてクネとなる。

この「子孫の繁栄を願う」行事は、玄宗が「羽化登仙云々で半仙戯とした」というあたりにも出ているし、それが朝鮮半島に渡って端午の、女性の成人儀礼となったというのも頷ける。『経国集鞦韆篇』には嵯峨天皇の「幽閨人、粧梳早、正是寒食節、共憐鞦韆好」があり、『色葉字類抄』では鞦韆、ユサフリとあるが、同じ本でも『伊呂波字類抄』になると、ただ「鞦韆」とあるだけで素っ気ないことこの上ない。しかし、本来からいえば『色葉字類抄』『伊呂葉字類抄』は辞書だから、それはそれでよいのかも知れない。

緑園書房、喜多村信節著、『嬉遊笑覧』児戯の項にも鞦韆があり、「和名抄鞦韆、和名由佐波利。もと北狄軽嬌の態を習ふ伎なるを後、中国に伝り、専ら女子これを戯するよし事物紀原等にいへり。和名ゆさはりはゆれる義にて、ゆすふるといふ是なり。但こゝには田舎などにはする事もあり、それも女子の戯にはあらず、漢土には是を風流の事とす」とあるが、それに続けて『房総志料』も引用し、「夷隅郡萬木城の麓に妙見の社あり、秋社に鞦韆の戯あり、太平記の頃の古俗を伝へしとみゆ」ともある。だから鞦韆が日本に伝えられた当時は、「ぶらんこ」という半ば遊戯化されたものではなく、儀式の一つとして伝えられたものだということが窺われる。

この『嬉遊笑覧』が引用した高承の『事物紀原』は、「秋千」のタイトルで掲載しており、それによれば『古今芸術図』を引用した上で、千秋が正しいとしている。だから『事物紀原』のもう一つ先に『古今芸術図』があるわけで、国会図書館古典籍資料室で聞いてみたら、「『古今芸術図』という本は、ここにはありませんので、どんな本かは分かりません。もしかしたら昔の絵に、賛のような形でつけられているのではないでしょうか」ということだった。国会図書館で分からなければわれわれにはなす術もない。まったくのお手上げということになる。

その『事物紀原』「歳時風俗部」に、「秋千」として掲載されている全文は「古今芸術図曰北方戎狄愛習軽趫之態毎至寒食為之」【『古今芸術図』によれば北方の異民族、未開民族は、いまでいう軽業のようなことをしていて、寒食節にそれをする】という。それが「中国女子李芝蘭乃以綵縄懸樹立架」【中国の李芝蘭という女が五色の綱を木にかけ、これに乗って見せたという】とある。ここで「中国の女、李芝蘭…」と、わざわざ中国の、と断っているのが奇異に感じられるが、古代でいう中国は、そのまま現在の中国を意味するものではなく、ここでは多民族国家の中心の国というほどの意味だから、その中心となる漢民族が住んでいるところという、ある限定された地域を指す。そして、「謂之秋千或曰本山戎之戯也」【秋千というが、これはもともと北方の山賊たちの遊び】で、それが中国に伝わったのは「自斎桓公北伐山戎此戯始伝中国」【斎の桓公が北方未開の山賊を平らげたとき、この遊びが初めて中国に伝わった】のだという。

そして問題の語源について「一云正作千秋字為秋千非也」【正しくは千秋と書き、秋千というのは間違いだ】としている。そして「本出自漢宮祝寿辞也後世語倒為秋千耳」【その言葉の起源は漢の宮廷の祝辞にあった言葉で、それを後の世で逆さにし、秋千というようになってしまった】とあるが、これは『和漢三才図会』でまた出てくるから、あとはそちらで述べることにする。ここに出てくる戎狄、山戎とは平たくいえば蛮族、山賊といったようなもので、中国北部の後進部族をいう言葉だから漢民族ではない。いまはその地も征服され、中国の一部になっているが、そのころの中国にあってはあくまで未開の地でしかない。綵縄とは色綱のことで千秋ということばの起こりは、漢の時代であったことが知れる。斎の桓公は紀元前六百五十一年ころ、時代としては春秋時代の皇帝で、ぶらんこはそのころ中国に伝わったことになる。それから戦国時代を経て、秦の始皇帝が中国を統一し、さらに前漢、後漢へと続くが、その前漢、後漢のどちらに始まったのか、そこまでは『事物紀原』も書いていない。

不思議なことにこの『古今芸術図』あるいは『事物紀原』は、各種の文献にしばしば引用されており、「千秋」が正しいという記述はあちこちにあるが、李芝蘭という女性の名前が挙げられているのは、私が知る限りでは『事物紀原』だけだということだ。後で出てくる『聊斎志異』の、お姫さまのような高貴な女性でも、何々の公主としているだけで名前などは出てこない。いまはどうか知らないが、古代中国においては徹底した男尊女卑で、中国唯一の女帝、一部では行きすぎがあったとしてもあれだけの勢威を振い、かつ有能であった則天武后さえ皇帝としては認めず、「雌鶏鳴いて国滅ぶ」という国柄だから、そんな関係もあって女性の名は無視され、出て来ないのかも知れない。

『荊楚歳時記』は粱、宗懍の著だが、本によって「晋」宗懍となっているものがある。この『荊楚歳時記』は楚の国の元日から歳暮に至る年中行事、二十数項目について書かれており、著者の宗懍は五世紀始めころ生まれ、六十四歳で没している。日本でいえば推古天皇即位の約百年まえ、神代の末期に当たる。その宗懍が何歳のときの著作かは不明で、原題は『荊楚記』といわれている。起源からいえば歳時記というより、歳事記といったほうが相応しいもので、これに類するものとしては『四民月令』ほかの農事暦や、『清嘉録』『帝京歳時記』『燕京歳時記』『人海記』『京都風俗誌』『東京夢華録』などがあり、ここに出てくる書名のうち、燕京はいまの北京、東京とは汴京、『京都風俗誌』『東京夢華録』の京都、東京は日本の京都や東京のことではない。だいたい中国の京は東西南北、つまり東京、西京、南京、北京があり、日本の東京、京都は、それらの名称を取り入れたものである。

宗懍の序は「荊楚の歳時を録し」となっており、六世紀末から七世紀の始めに、杜公瞻が『荊楚記』の注釈をしたとき、原著の序に因んで「歳時」の二文字を加え、『荊楚歳時記』としたといわれている。公瞻の注釈本は玄奘三蔵のころ、中国唯一の女帝、唐の則天武后から玄宗皇帝のころまでに成ったということになる。そのとき公瞻は注釈だけでなく、独自に新しい項目を追加し、そのころ既に何種かあった異本の項目も加え、大幅な加筆、訂正をしているから、この段階ではもう原著の二十数項目ではなく、のちになって追加されたものを除いても、四十九項目に亙る。従って厳密にいえば現在に残る『荊楚歳時記』は、宗懍と公瞻その他による共著というべきものだろう。

この『荊楚歳時記』は、遣唐使によって奈良時代の日本に齎された。私の手元にあるものの一つは和刻本で、これは元文二年(一七三七)夏刊行、大阪心斎橋筋唐物町、北田清左衛門の版になるもので、これについては桂五十郎著、日本図書センター刊、『漢籍解題』に「粱の宗懍撰す。或は晋人とする者あるは誤なり。懍は元帝に仕へ、吏部尚書に至れり。伝記詳ならず。此書は荊楚歳時の風物故事、元日より除日に至る凡そ二十余事を録せり。故に歳時記といふ。我国には現在書目に著録すれば、其渡来の古きを知るべし。元文二年翻刻せり」と解題されている。

私が国会図書館で複写してもらったのはまさにこの本なのだが、その元になったものは『星経』とともに収められており、もちろん中国で刊行されたものである。私はこの二種類の本はどちらも中国で別々に刊行された本、異本だと思って両方を複写してもらったが、実は片方は中国での版、もう一方はその本の序文、奥書を省略して日本で刊行した本ということだから、序文、奥書の有無という違いがあるだけで、本文は一字一句の違いもない。どちらも『宝顔堂秘笈』に収められた『荊楚歳時記』に比べると、いろいろと脱落がある。こで改めて『宝顔堂秘笈』所収の異本も探したが、こちらは結局、諦めてしまった。探すという作業の大変さもあったが、それを諦めた第一の理由は、探している本はなにも『荊楚歳時記』だけではないということで、すべての本について異本をぜんぶ当たっていたのでは、それこそ収拾がつかなくなってしまう。それに要する時間と金と根気という三点から考えても、専門家じゃあるまいし、そこまでやってらんねえよということである。

閑話休題。手元の『荊楚歳時記』は打毬、鞦韆、施鉤が同一の項目に纏められているが、参考までに挙げてゆくと「打毬鞦韆施鉤之戯」【ポロ、ぶらんこ、綱引きの遊び】というタイトルで、「按劉向別録曰蹴鞠黄帝所造本兵勢也或云起戦国」【劉向の『別録』によれば蹴鞠は黄帝が始めたといわれる。もともとの起源は戦争に纏わるもので、戦国時代に始まったものだ】という。つまり敵の首を取り、それを蹴りあって戦勝を祝したものが、次第に軍事訓練の一環としてゲーム化され、毛を皮で包んだ毬を蹴るものがサッカーとなり、馬に乗り、杖で毬を打ちあったものがポロの起源だとする説である。そして「按鞠与毬同古人蹋蹴以為戯也」【鞠も毬も同じもので、昔の人はこれを蹴りあって遊んだ】とある。さらに「ぶらんこ」については「古今芸術図云鞦韆北方山戎之戯以習軽趫者」【『古今芸術図』によれば鞦韆とは北方部族の遊びで、その身軽さを競ったものだ】とあるが、この点については寒食のところで書いたからそちらも参照されたい。

次に三つめの綱引き、施鉤については「施鉤之戯以綆作篾纜相亘数里鳴鼓牽之」【施鉤とは篾纜から小綱を何本も出し、互いに引き合う。その綱は数里に及び、太鼓の合図に合わせてこれを引き】その結果で豊作、凶作を占った。日本にも綱引きで豊作、凶作を占う行事があったと思うが、この「篾纜」は竹の皮で作った綱で、のちには麻縄が使われるようになった。ここでは篾纜の長さを「亘数里」【数里に亘る】といっているが、これは中華里ともいうべき長さで、度量衡は中国と日本では相当な違いがあるし、同じ中国でも時代によって、度量衡の基準そのものも違っている。そういう事情もあって中国の一里は日本の四百五メートルとか、五百メートルとかで、これは一華里というべきだろう。『三国志』などでも敵が実際に見えているにも関わらず、その距離を五十里、百里などといっているが、これを日本の里数の概念で考えると理屈に合わない、おかしなことになってしまう。そして「求諸外典未有前事」【これは外国の書物にも書かれていないことだ】といっている。

次の施鉤も元を辿れば戦争にゆきつく。そのころ公輸という参謀がいて常に軍略を練り、用兵に意を用い、城を攻めたり、守ったりする方法を考えていたが、楚は水郷地帯であるため、どうしても水上戦が多くなる。そのため「公輸予遊楚為舟戦其」【むかし公輸は楚に遊んだとき、舟戦の研究をした】という。帆を張るか、人が漕ぐ以外に動力のなかった時代の船戦さは、それが海にしろ川にしろ、風向きや水の流れる方向、その時間などを無視して勝つことは不可能となる。だが、時にはそういう法則を逆手に取って、いわば逆転の発想で大ばくちを打つ場合もある。そういうとき相手の動きを制御するために考えられたのが「強鉤」で、敵が波に乗って攻めて来る場合、川下、風下側はどうしても不利になる。そこで鉤をつけた綱を相手の船に掛けて振り回したり、動きを妨害したりする。「退則鉤之進則強之名曰鉤強遂以時越以鉤為戯意起於此」【敵船の前進、後退に合わせ、引いたり緩めたりして動きを妨害する。これを強鉤といい、時を経て一種のスポーツとなった】というが、「涅槃経曰闘輪罥輪索其鞦韆之戯乎鞦韆亦施鉤之類也」【涅槃経にいう、闘輪罥輪索とは鞦韆のことだろうか。鞦韆もまた施鉤の類である】としており、ぶらんこも施鉤の類であるとする後段は頷けるとしても、涅槃経に出てくる罥輪索、人を救うため
に仏が操る糸と、ぶらんこを同一視するのは少し乱暴ではないかという気がしてくる。

鞦韆についての記事は「古今芸術図云鞦韆北方山戎之戯以習軽趫者」【古今芸術図でいう鞦韆は北方の山戎たちの遊びで、身軽さを競うものだ】という一節しかない。この「習軽趫者」とは山岳地帯に住む種族の修行というか、遊びというか、いまでいう軽業のようなもので、日本でいえば伊賀や甲賀のようなものだろうか。【鞦韆また施鉤の類なり】といい、綱を使うという点では共通しているといえるが、少なくとも綱引きとぶらんこを同類項で括ったら、それもちょっと無理ではないかという思いはある。施鉤は綱引きの原形のようなもので、船同士が鉤をつけた綱で相手の船の動きを妨害したり、引き寄せたりしたものである。また、蹴鞠は捕虜の首を取り、それを蹴りあったもので、その起源からいえば公卿さんがやるような優雅なものではない。だいたい、どのゲームも元を辿ってゆくと、戦争にゆきつくものが多いが、それも分かるような気がする。

中国は日本のように群雄個々の興亡ではなく、国そのものが興ったり滅びたりするから、その間の栄枯盛衰はあっても今に至るまで天皇家が続いている日本、いわゆる万世一系とは根本的な違いがある。国の興亡に伴って前のものを踏襲することもあるし、まえのもの一切を廃棄してしまう場合もある。新主権者が前王朝の諸制度を嫌ってすべてを刷新するとき、度量衡もその例外ではない。本なども前王家を美化したもの、擁護したものは、次の権力者にとっては都合が悪いから禁書とされて、すべて焼かれる破目になる。暦などもいい例で、政権の改廃に伴って前のものは廃棄されたりする。日本では考えられないことだが正月を十月にしたり、十二月にしたり、三月にしたり、というようなことが実際に行われていた。

その暦は漢の鄧平が作った三統暦が最初といわれている。以後、中国が太陽暦を採用するまでに施行された暦は四十六種あり、実施はされなかったが、暦の名が残っているのは百くらいあるという。『三国志』にもあるように、首都咸陽が三箇月にも亙って燃えつづけたという、それほど徹底した破壊だから戦乱で焼失したり、禁書となって処分されるものが多く、現存しないと信じられていた『玉燭宝典』が、日本で発見されて奇蹟だと騒がれた例もある。

次は上海古籍出版『聊斎志異』「西湖主」の一節で、見晴らし台には雲がかかり、藤の花は馨しい。朱の楼閣を柳の枝が撫で、そよ風もこころよい龍王の邸へ、貧乏書生が誤って迷い込んだ場面である。「穿過小亭有鞦韆一架上与雲斎而罥索冗冗杳無人蹟」【小さな四阿を過ぎるとぶらんこがあって、てっぺんが雲に届くほどであった。ぶらんこの綱は静かに垂れ、杳として人の気配はない】そこで書生は「因疑地近閨閣恐怯未敢深入」【もしかしたらここは大奥の近くではないかと思い、恐れてそれ以上は入らなかった】ところ、「移時女起歴階而下一女曰『公主鞍馬労頓尚能鞦韆』公主笑諾」【しばらくすると女たちが現れて階段を降り、庭に立った。なかの一人が『お姫さまは馬に乗ってお疲れになったでしょう。その上まだぶらんこにお乗りになりますか』といったところ、姫は笑って頷いた】ので、「遂有駕肩者捉臂者裳裙者持履者挽扶而上」【あるものは肩に乗せ、腕を取ったり、裾をからげたり、沓を持ったりして、ぶらんこへ助け上げた】すると「公主舒皓躡利屣軽如飛燕蹴入雲霄」【姫は白い腕を思いきり伸ばし、先の尖った沓を履き、燕のような軽やかさで、雲のなかに入るまでぶらんこを蹴った】と続く。

そして「己而扶下羣曰『公主真仙人也』嬉笑而去」【やがて姫を助けてぶらんこから下ろすと、『お姫さまは本当の仙人でいらっしゃる』と、笑いさざめきながらいってしまった】とある。このへんはやはり原文でなければ味わえない風情が感じられ、その情景が目に見えるような気がする。「腰細驚風」などという微妙な一節を、そのまま不用意に日本語にしたら、その艶なるところは半減してしまうだろう。宮廷の女が裳裾をひるがえす景はまさに薄絹の感触、古代中国の女のもので、日本の風俗、たとえば十二単衣ではあまりそぐわない。挿絵には高い櫓が組んであり、ぶらんこに乗った姫君の位置は屋根より高い。

原文では仙人に紛う擬半仙となっているが、公主とは皇女の中国風の呼名である。日本でいえば内親王ということになるが、中国では皇女が降嫁するとき三公という、国により時代によってその名称に違いはあっても、太政官の最高位にある三人だけが、その降嫁を司どるため公主と呼ばれた。ここでは洞庭湖の主、龍王の娘のことである。また、先の引用文に出てくる「屣」は沓、履物の総称で、草履などもこれに含まれる。古代中国に草履はなかったようだから例の細身の、刺繍を施して先の尖った沓を履いていたのだろう。纏足はもっと後の話になる。そのほかに王仁裕撰による『開元天宝遺事』は開元、天宝年間の、主に玄宗皇帝に纏わる民間伝承を集めたもので、長恨歌を下敷きにした楊貴妃との物語や、七夕伝説なども含まれるが、そこにも寒食節の宮中でぶらんこを楽しむ女たちの描写がある。

『和漢三才図会』は芸能の部で「高絙(つなわたり)」縁竿として「佐保乃保利」、鞦韆として「戯縄、上索、和名由佐波利」とあり、綱渡りのルビは変体仮名で書いてある。良安は注記して「按鞦韆高絙縁竿等今云軽業也」【ぶらんこ、綱渡り、竿登りなどはいまでいう軽業だ】という。それに続けて「倭名抄出鞦韆則往古昔本朝亦有之乎」【『倭名抄』にも鞦韆とあるが、これは昔のわが国にもあったのだろうか】といっている。ここではぶらんこだけではなく綱渡り、竿登りなど、要するに軽業を総称しているが、ぶらんこの部分には「字彙云鞦韆縄戯也漢武後庭本云千秋祝寿之詞也偽転為秋千後人不本其意乃造鞦韆二字」【『字彙』に鞦韆とは綱を使った遊びだとしている。漢の武帝の後宮では千秋といい、千秋とは本来、祝い寿ぐ万歳千秋という言葉なのに、それを間違えて秋千というようになってしまい、のちの人はその本意を弁えないで鞦韆の字を当て】その誤りがいまに続いているという。 

俳句のほうでは三橋鷹女の「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし」があまりにも有名だが、講談社『日本大歳時記』には「鞦韆に抱き乗せて沓に接吻す 虚子」「鞦韆にこぼれて見ゆる胸乳かな 青々」「鞦韆に腰かけて読む手紙かな 立子」などがあり、それぞれの姿が鮮明に見えて郷愁を誘う。これらはみな「艶なるエロティシズムがただよい」の好例だろう。ぶらんこというものはやはり昔もいまも、こどもや男などより、成人した女にこそ相応しい遊具といえるのではないだろうか。