2014年8月31日日曜日

2014年8月31日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(191)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(188)

       内山 思考    読む

尾鷲歳時記(188)

昭和七年の思考
内山思考 

恋はまだ地球を出でず西鶴忌   思考

秋双特選の祖父の句 
冴返る幾日を梅の蕾かな














僕の祖父田花(たばな)房吉が俳句を始めたのは昭和七年だと日記に書いてある。四十の手習いで思考の俳号も自ら名付けたそうだ。一時「思幸」の時もあったようだ。ちゃんと記述があるから、ああそうなんだと知ることが出来る。でなければ時の彼方に消え去った筈の出来事だから、あらためて文字の力は凄いと思う。手元に「大樹」の昭和七年九月号がある。同誌は昭和二年七月に創刊されたばかりで、まさに黎明期の一冊である。当時の主宰は芦田秋双(十一年八月号から北山河)、表紙の無いのが残念だが、紙質も良く、終わりの方には大阪神戸の十以上の吟社の会報が載っている。八十年前も俳句熱は盛んだったと見える。雑詠欄に「朝顔の鉄条網にからみけり・思考」があり多分、活字になった最初の祖父の俳句ではなかろうか。

驚くのは巻頭に「子規居士の書簡」が写真入りで紹介されていることだ。しかも鮮明である。持ち主の正木瓜村氏の一文によると、入手の経路は氏の母方の従兄が松山高等女学校に奉職の際に手に入れ(明治四十五年頃)、本棚の隅に放ってあったのを自分が持っているよりは、と進呈されたのだとか。

子規居士の書簡
それ故、この手紙は「子規全集」にも漏れており巻末の二句「何といふ発句つくらふぞ秋の風」「風だけを秋と思へばましらかな」ももちろん未掲載だという。何とも夢のような話だが、子規没後三十年足らずの当時なら有り得たかも知れない。宛先の河東という人は河東碧梧桐の兄、日付は明治二十四年十月十三日で東京本郷の常盤会寄宿舎から出され十六日に松山局へ着いている。近況と俳談のあとの署名「都子海苔(つねのり)」も珍しいと正木翁は記している。全体を読んでみると誌友同人の俳句からは平穏な日常が伺えるが、この十年後はすでに大戦の最中、末期には関西に空襲が集中した。貴重な子規の便りが果たして戦火を逃れられたのかどうか、今となっては大いに気にかかるところである。

俳枕 江戸から東京へ(191)

麻布十番(その3)
文:山尾かづひろ 

大石内蔵助













都区次(とくじ): 前回は麻布十番の賢崇寺でしたが、今日はどこですか?

花サビタ江戸の坂とて侮れず 大森久実

江戸璃(えどり):やはり13年ほど前に大矢白星師に連れて行ってもらった南部坂へ行くわよ。麻布十番から行くのでちょっと歩くわよ。
江戸璃:東京には江戸時代からの南部坂が二つあって、一つは①麻布の南部坂で、もう一つは②赤坂の南部坂なのよ。どちらの南部坂も名前の坂のそばに南部屋敷があったことね。赤坂の南部坂のほうが麻布の南部坂よりも古いのよ。

①麻布の南部坂は麻布盛岡町、現在の住所で南麻布四丁目と五丁目の境にあり、有栖川宮記念公園の南外囲に沿って東に上る坂なのよ。坂上にはドイツ大使館があるわよ。坂の名前は、江戸時代、現在の有栖川宮記念公園の場所に奥州・南部藩の屋敷があったことに由来しているのよ。

②赤坂の南部坂は赤坂福吉町と麻布今井町との境、現在の住所で赤坂二丁目と六本木二丁目の境界をアメリカ大使館宿舎わきを西北に上り、左折してさらに氷川神社のほうに上る坂なのよ。坂の名前は、江戸時代初期、近隣の氷川神社の辺りに南部家中屋敷があったことに因むのよ。この坂は急峻であることから、後には「難歩坂(なんぶざか)」と書き表されることもあった。また、「なんぽ坂」、「赤坂」とも呼ばれたのよ。

この坂の由来となった南部家中屋敷は明暦2年(1656年)、赤穂藩浅野家との間で屋敷の取り替えが行われたのね。この際に南部家は現在の南麻布、有栖川宮記念公園のある場所へと移動、移動先でも「南部坂」が生まれたために同名の坂が2ヶ所存在することとなったわけ。南部坂が「難歩坂」「なんぽ坂」などと書き換え、言い換えられるようになったのは、「南部屋敷」がこの坂の周囲から移転してしまったことによるのよ。この坂は、『忠臣蔵』の名場面のひとつ、大石内蔵助が瑶泉院に暇乞いに訪れた「南部坂雪の別れ」の舞台としても知られているわね。瑤泉院は浅野内匠頭の切腹以降、実家の三次藩下屋敷に引き取られていたけれど、この屋敷は赤坂・南部坂の頂上付近、現在の氷川神社境内にあったのよ。現在、この坂の南西側はアメリカ大使館の官舎(宿舎)になっており、通常は立ち入りが出来ないわね。

瑤泉院















花芒泪の話残る坂       長屋璃子
切り岸に風ひとつあり花芒  山尾かづひろ