2012年3月4日日曜日

2012年3月4日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(61)
        山尾かづひろ 読む

■ 尾鷲歳時記(58)                          
        内山  思考  読む

■ 私のジャズ(61)          
        松澤 龍一  読む

俳枕 江戸から東京へ(61)

渋谷川流域/渋谷駅・東側(その2) 
文:山尾かづひろ 
東急文化会館









都区次(とくじ): 渋谷駅の東側には五島プラネタリウムがありましたね。私は開業間もない頃に小学校の遠足で行きましたよ。そのあとも何回か行きましたよ。
江戸璃(えどり): 五島プラネタリウムがあったのは東急文化会館で、昭和31年12月に完成したのよ。8階建てのビルで、屋上の銀色のドームがプラネタリウムだったわね。8階がプラネタリウム、7階が結婚式場・宴会場、6階・5階・1階・地下1階に映画館があって、4階が服装学園、3階が美容室・理容室、2階がレストラン街だった。でも建物の老朽化が進んで平成15年に解体されて47年の歴史に幕を閉じちゃったわね。
都区次: どうですか、無くなると思い出が募ってくるのではありませんか?
江戸璃: そうなのよ!思い出すと、もうたまんない! 2階には、あんみつ屋の「立田野」の向かいに「ジャーマンベーカリー」があったのよ。上品な都会的な東京の匂いがしてね。ハンバガ―やホットドックとコールスローサラダのセットをはじめ、アップルパイなど、昔ながらの独特の美味しさだったのよ。
都区次: いまのはレストランのお話しですが、持ち帰りはあったのですか?
江戸璃:もちろんあったわよ。黄色い影絵のような男の子と女の子が描かれた包装紙だったわよ。
ジャーマンベーカリーと言えば「バームクーヘン」ね、砂糖をまぶしたヒラヒラした外周、中身は年輪がふぞろいで、しっとりとやわらかい。あの美味しさは他のどんなバームクーヘンにもなかったわよ。
ドイツパンで黒くて酸味が利いて、むぎゅうとした「ライブレド」は日本で一番美味しかったわよ。オーナーのミューラーさんはオニオンの薄切りをはさんで食べていると聞いたわね。
「猫の舌」というチョコレートの味は忘れられないのよね。
都区次:東急文化会館の解体後「ジャーマンベーカリー」はどこかへ移ったのですか?
江戸璃: 有楽町に支店があったけれど、ドイツ人のミューラーさんに習った職人さんがいなくなって廃業しちゃったらしいわね。残念よね
都区次:ところでプラネタリウムの方は、その後どうなりましたか?
江戸璃:一昨年の11月に渋谷駅の西側に渋谷区文化総合センタ―が出来て、その中にオープンしたそうよ。やはり渋谷にはプラネタリウムが無いとダメよね。

初代プラネタリウムの
独ツァイス社製投影機













二月尽くプラネタリウム消えし街 長屋璃子(ながやるりこ)
春昼に南十字を見し渋谷 山尾かづひろ

尾鷲歳時記(58)

母のこと 
内山思考

ふきのとう山の言葉は水にとけ  思考


昭和36年刊行の
「十津川の歴史」













僕の母は大正10年2月27日の生まれ、先日91才になった。父と同じ奈良県十津川村の出身で父とは見合い結婚だったそうだ。母の実家は昨年、未曽有の台風災害があった国道168号線沿いの、湯泉地(とうせんじ)温泉から支流を上がった武蔵という集落で、深い杉の森の中、車一台がやっと通る急峻な山道をしばらく行くと、いきなり視野が開けて、1キロ四方の平地が現れる、そんなところである。ここは「日本一静かな場所」としてNHKで取り上げられたこともあったように記憶している。たしかバイオリニストの千住真理子さんが訪れ、素敵な演奏を聴かせてくれる企画だった。

十津川は南北朝の時代から、日本の歴史にたびたび係わってきた土地柄で、母の生家のすぐ近くにも、楠木正成の孫、楠木正勝の墓所があり、苔むした五輪塔が立っている。正勝は虚無僧の元祖とも言われているらしく、例の深編み笠の虚無僧がたくさん集まって、尺八を吹く催しがあったりもしたようだ。落ち延びて、楠木家の再興を願いつつ悲運の最後を遂げたと聞くが、それにしては、意外なほど見通しのいい明るい場所である。旧蹟として整備されていることもあるだろう、しかし、それでも陰気を感じないのは、彼が里の住人に愛されていた証拠ではないか、と僕は思っている。

新宮市での母「昭28暮」とある。
ねんねこの中が僕
子供の頃、母の里帰りにくっついて武蔵に来ると、親類とは言え、他家の日常に客として加わる気恥ずかしさをいつも感じたが、伯父伯母、従兄弟たちは家族が一人二人増えたぐらいの気安さで接してくれ、僕はいつの間にか、打ち解けていったものである。深夜に及んだ従兄の結婚式、母も踊っていた盆踊り、山の上の墓参り、懐かしい記憶は、月日と共に上質の酒のように熟成して僕を酔わせてくれる(現実では下戸だが)。

今、この文をケータイのメールで書いていて、人生の長旅を終えた母は隣りの部屋で安らかに眠っている。思えば歌うことも声を荒げることもほとんどなく、生まれ故郷のように静かな人だった。母にはほんとうに感謝の気持ちで一杯である。もうすぐ夜が明ける頃だ。

私のジャズ(61)

モダン・ジャズの父、レスター・ヤング
松澤 龍一

 The Immortal LESTER YOUNG
 (Savoy MG 12068)













上掲の写真はサボイから出されたレスター・ヤングのレコードのジャケットである。気に入っているレコード・ジャケットの一つ。テナー・サックスの上に帽子がちょこんと載せられているだけの単純な写真だが、いかにも楽しそうな音楽が聞こえてきそうだ。

レスター・ヤング、黒人のテナー・サックス奏者。黒人とのことだが写真を見る限り、100パーセントのニグロではなさそうだ。どこかとの混血かと思うが、はっきりはしない。コールマン・ホ―キンスに代表されるビブラートをたっぶりと利かせた音色、豪放に立て乗りリズムでスイングする奏法の全盛時代に、突如現れた、そのまるっきり反対のテナー奏者がレスター・ヤングだった。ビブラートは少なく、むしろノン・ビブラート奏法に近い、フレージングもスタッカートよりスラーを主体としたもの。

カウント・ベイシー楽団に雇われたことが彼のジャズ・プレヤ―としての実質的なデビューとなる。当時のベイシー楽団にはハーシャル・エバンスと言うコールマン・ホ―キンス系のテナーの名手がいた。このコールマン・ホ―キンス系のテナーにレスター・ヤングのような異色のテナーをぶつけると言った狙いがあったのだろう。この狙いは大成功を収めた。事実、この二人のテナーが在籍していた時代がカウント・ベイシー楽団の全盛期と言ってもおかしくないだろう。

レスター・ヤングはカウント・ベイシー楽団やそのピックアップ・メンバーのコンボであるカンサス・シティ・セブンなどで多くの名演を残しているが、彼の極めつけは何と言ってもビリー・ホリデイとのコラボレーションだ。ビリー・ホリデイの初期の録音の多くにレスター・ヤングが参加をしている。この時期、私生活でもこの二人は同棲をしていたとのことである。下の音源はビリー・ホリデイの初期の名演、Me Myself And I だが、最初、ビリー・ホリデイが唄い、その後、トランペット、クラリネット、ピアノのソロが続く。これらのソロはスタッカートで立て乗りの典型的なスイング・ジャズ時代のフレージング。

レスターはソロは取らずビリー・ホリデイのセカンド・コーラスに絡んでくる。この絡みは息をのむほど素晴らしい。ビリーとレスターがなんとしなやかに歌うこと。このようなスラーを主体としたしなやかなフレージングがチャーリー・パーカーを経て後のモダン・ジャズへと引き継がれて行く。その意味ではレスターはモダン・ジャズの父と言ってよかろう。さしずめ母はビリー・ホリデイか。