2014年12月28日日曜日

2014年12月28日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(208)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(205)

       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(208)

谷中(その17)
文:山尾かづひろ 

ありし日の五重塔













都区次(とくじ):早いものですね。今年も残すところあと3日ですよ。こんな日は寺に誰も居ませんね。猫も帰ってゆきますよ。

山茶花や猫おもむろに立ち去りぬ 窪田サチ子

都区次: 前回は谷中の天王寺(てんのうじ)でしたが、今回も天王寺ということでしたが何を見て、何を話してくれるのですか?

ことりとも音せぬ路地や年暮るる 冠城喜代子

江戸璃(えどり): 大矢白星師が8月のお盆休みに谷中を歩いたときと同じ場所を案内して同じ説明するつもりなのよ。天王寺は元は感応寺(かんのうじ)という日蓮宗の寺院だったと説明したわよね。感応寺時代からある逸品として像高296センチメートルの銅造釈迦如来坐像があるけれど、もう一つ五重塔という逸品があったのよ。最初の五重塔は、寛永21年(1644)に建立されたけれど、150年ほど後の明和9年(1771)目黒行人坂の大火で焼失しちゃったのよ。それでも羅災から19年後の寛政3年(1791)に近江国(滋賀県)棟梁八田清兵衛ら48人によって再建された五重塔は総欅造りで高さ約34メートルあって関東で一番高い塔だったのよ。明治41年(1908)6月東京市に寄贈され、震災・戦災にも遭遇せず、谷中のシンボルになっていたけれど、昭和32年7月6日不倫の恋の48歳の男と21歳の女の放火心中で焼失しちゃったのよ。そういう訳で今は花崗岩の塔跡だけなのよ。それでも明治3年の実測図が残っており復元も可能だそうよ。
都区次:塔跡のある辺りの形状は霊園ですが?
江戸璃:元は天王寺の境内だったのだけれど、明治維新に土地の殆どを新政府に献上して現在の谷中霊園になったのね。塔跡の近くの霊園事務所で「谷中霊園案内図」をもらい著名人の墓めぐりをしてみましょう。徳川慶喜、佐々木信綱、上田敏、さらには長谷川一夫など、それだけで2、3時間はかかっちゃうわよ。
炎上する五重塔













枯木立塔は礎石を残すのみ  長屋璃子
冬日濃し寺町影の神輿蔵   山尾かづひろ

尾鷲歳時記(205)

おいしいカツオだし 
内山思考 

数え日の石に木に触れ那覇巡り   思考

沖縄メニューが並ぶ店先









安謝(あじゃ)でのアパート生活が始まった。室温24度、開けっ放しの窓から風さやさや。静養第一の恵子は寝っ転がっている時間が長く、僕は買い物がてら散歩がてら外出する時間が多い。一応レンタカーを借りてはいるが、緩やかな坂を下りていけばすぐスーパーがあるから日常に車はいらない。とにかくこれから毎日、万歩計のカウント数を増やすのが仕事のような生活である。

昨日はクリスマスイブだったからマーケットの総菜売り場はチキンを主体とした揚げ物のオンパレードだった。老若男女が次々に手を伸ばして買って行く。野菜類のおかずはと見れば、ポテトたっぷり油ピカピカの炒めもの、どれもこれもうまそうやなあと見つめるのはタダだから、眺めておいて、なるべくサッパリしたプレーン系統の夕食を二人前買って帰った。

それとサンピン茶(ジャスミンティー)の2リットル入りペットボトルも忘れない。緑茶はたくさん飲めないが、このサンピン茶は口当たりがいいから内山夫婦のお気に入りなのである。運動量を増やすまで食事の質と量には繊細でいたい。その内、タカシさんヒロコさんたちと焼き肉バイキングに進撃したいものである。

今日は恵子に外出させる目的もあって外食することにした。目指すは新都心に近い大型マーケット、そこのテナントで沖縄そばを食おうというのである。ちょうど昼時で満席だったが、回転が早くて、すぐ「二名様どうぞ」の声。注文はすでに決まっていて僕が「ゴーヤチャンプルー定食」恵子「野菜そば」である。
このホテルの
レストランによく行く
本当はもう少し足を伸ばして「沖縄す(そ)ば」の専門店へ出かけたいところだが、まずは近場で舌慣らしの舌鳴らしというところ。まわりのテーブルの様子を見るとは無しにチラチラするうちに「おまちどおさま」の声。ああ、やっと沖縄の味を楽しめる。僕は定食についている小ぶりのソーキそばの、恵子は野菜そばのスープをそれぞれ啜って、ニッコリ笑い合ったのであった。

2014年12月21日日曜日

2014年12月21日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(207)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(204)

       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(207)

谷中(その16)
文:山尾かづひろ 


天王寺本堂









都区次(とくじ):早いものですね。明日の22日は冬至ですよ。北国からは早々と大雪の便りが届いていますね。

雪卸し小昼はいつも屋根で餅 小川智子

都区次: 前回は谷中の功徳林寺(くどくりんじ)でしたが、今回はどこですか?

列車の尾過ぎ焼藷売りの声戻る 吉田ゆり

江戸璃(えどり): 今回も大矢白星師が8月のお盆休みに谷中を歩いた分のトレースの続きなのよ。というわけで谷中の天王寺(てんのうじ)へ行くわよ。天王寺は天台宗の寺院なのよ。天王寺は元は感応寺(かんのうじ)という日蓮宗の寺院だったのよ。日蓮が鎌倉と安房を往復する際に関小次郎長耀の屋敷に宿泊した事が縁になって、関小次郎長耀が日蓮に帰依して草庵を結んだのが発端なのよ。日蓮の弟子・日源が法華曼荼羅を勧請して開山したのよ。寛永18年(1641)徳川家光・英勝院・春日局の外護を受け、29690坪の土地を拝領し、将軍家の祈祷所となったのよ。像高296センチメートルの銅造釈迦如来坐像があるけれど天王寺の前身、感応寺の住職・日遼が元禄3年(1690)5月に鋳造したものなのよ。
都区次:この天台宗の天王寺は元は日蓮宗の感応寺だったようですが、宗派・寺号が変ったのはどういうわけですか?
江戸璃:感応寺は開創時から日蓮宗で、早くから不受不施派に属していたのね。不受不施派とは、信者以外からの施しは受けず、また他宗の者には施しをしない・・・これはゆるぎない信心としてはともかく、権力者にはなかなか手強い相手だったのよ。つまり、相手がどんなに偉い人であっても、日蓮宗を信じていなければ、一線を画しますよ、というわけなのよ。そんなことで不受不施派は江戸幕府により弾圧を受けたのよ。日遼の時、元禄11年(1698)強制的に改宗となり、日蓮宗14世・日饒と日遼が共に八丈島に遠島となっちゃったのよ。銅造釈迦如来坐像を鋳造した日遼は、感応寺時代の最後の住職となったわけね。これ以後、宗派は日蓮宗から天台宗に、寺号も感応寺から天王寺に変えられちゃったのよ。本尊の日蓮上人像も毘沙門天像に変えられたわけ。天王寺はまだ喋り足らないので次回に続くわよ。
天王寺銅造釈迦如来坐像












亭亭と冬木示せり存在感  長屋璃子
露座仏を囲む冬木の力瘤  山尾かづひろ



尾鷲歳時記(204)

そろそろクリスマス
内山思考 

青空に冬の雲ある安堵かな   思考 

看護師Mさんに貰った
折り紙のサンタ2人













沖縄に行く前に恵子の定期診断の為に名古屋へ行く必要があり、予報ではどうもその日が大雪になりそうだったので、思い切ってスタッドレスタイヤに履き替えることにした。尾鷲の気候は温暖だから大して遠出さえしなければ、普通のタイヤで冬を越せる。来週はもう那覇にいるのだから、新タイヤ購入は勿体ない気がしたが、背に腹は変えられない。

案の定、当日は津、四日市あたりから冬景色が一変して雪景色になった。一時間足らずの走行で同じ三重県とは思えぬ変わりようだ。高速道は交通量が多いから、轍の跡を大きく反れなければ運転にさほど支障は感じない。換えて置いてよかったねと恵子。ウンと僕。暖かいところでゆっくりして来て下さい、沖縄より暖かい医師や看護師さんの言葉に送られ、雪のチラつく中、桑名の姉との夕食もキャンセルして帰宅したのは7時だった。

明くる日は一転して1人で南へ向かう。娘の用事でこちらもタイヤ交換、ピンクの軽乗用車に乗って熊野大橋を渡り和歌山県へ入る。上天気だし、昨日と打って変わって南国気分である。指定されたタイヤショップの予約に一時間ほどあったので、ふと思いついて那智勝浦まで足を延ばした。中学高校時代のギター仲間くにひろ君を訪ねてみようと思ったのだ。確かこのあたりだったがなあ、入り組んだ街中を走って行くとあったあった看板が。「K工芸」と描かれた店のガラス戸を開けると、こちらを向いた顔は四十年前とまったく一緒やないか・・・・。

変わらぬくにひろ君
「くにひろ君か?」「おお」「わかる俺?」「田花(旧姓)か?」と言うような話でまあ2人ともそれから喋る喋る。あの時あーした。この時こーした。あちらは白ヒゲこちらは黒ヒゲ、外見はいい年のオッサン同士でも心は瞬時に十代である。沖縄から帰ったらまた会おうという事で、帰りのハンドルを握りながら、僕は一足早いクリスマスプレゼントを貰ったような愉快な気持ちであった。

2014年12月14日日曜日

2014年12月14日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(206)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(203)

       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(206)

谷中(その15)
文:山尾かづひろ 

功徳林寺本堂










都区次(とくじ): 前回は谷中の立善寺(りゅうぜんじ)でしたが、今回はどこですか?

つひ出ちゃう下町言葉葛湯かな  畑中あや子

江戸璃(えどり): 今回も大矢白星師が8月のお盆休みに谷中を歩いた分のトレースの続きなのよ。というわけで谷中の功徳林寺(くどくりんじ)へ行くわよ。功徳林寺は浄土宗の寺院なのよ。功徳林寺は、明治7年に開設された谷中墓地で法要をできない不便さを憂え、伯爵島津忠寛が発起人となり明治18年に許可を得て、明治26年堂塔建立、知恩院順譽徹定が開基となったと言われているわね。当地は天王寺の旧地にあたり、かつ笠森稲荷社、お仙茶屋の故地にあたるとから笠森稲荷があるのよ。
都区次:その笠森稲荷の話はそれだけじゃ、さっぱり分りませんよ。
江戸璃:そりゃそうよね、江戸時代、谷中には大円寺と福泉院に二つの笠森稲荷があってね、福泉院前の鍵屋という水茶屋にいたのが江戸で評判の美人お仙だったのよ。幕末の上野戦争で福泉院が焼失して廃寺になり笠森稲荷は寛永寺の子院養寿院に移転したのよ。のち、明治26年に福泉院跡に建立されたのが功徳林寺で、明治末期に祀られた稲荷社も笠森稲荷だったのよ。というわけで評判の美人お仙と深い因縁はないわね。

笠森稲荷










散る落葉おのづと遅速あるなれば  長屋璃子
冬日濃し笠森稲荷赤鳥居      山尾かづひろ

尾鷲歳時記(203)

年用意
内山思考 

女湯も妻だけらしき冬の山   思考

とりあえずもってゆく二冊









二十日過ぎの航空券を予約して、今年も内山夫婦は沖縄にて寒さをやり過ごすことになった。免疫抑制剤の副作用で体調がもう一つすぐれない恵子も、あちらにいれば尾鷲のように暖房のきいた部屋の中で冬眠しなくて済むと考えやっと決心したようだ。昨夜、滞在中にいつも行動を共にしてくれるタカシさんから電話があり、「空港まで迎えに行くから前の日に連絡して。奥さん元気?えっ尾鷲寒いの?こっちも寒いよ、僕半袖だけど」と言ったのを気に入ったらしく、恵子はしばらく笑っていた。

彼女は名古屋の担当医を通じて、那覇市の病院を紹介して貰い、帰鷲するまでそこに通院することになる。着る物や何かは間際に揃えればいいだろう。昨年は沖縄の気候がまるでわからず、タカシさんヒロコさんに聞くと、長袖に一枚羽織るぐらいとのこと。

しかし、毎日寒い寒いと過ごしている身にはどうにも感覚が掴めず、まあ行ったら何とかなるやろ、と那覇空港に降りたら、ちょうど沖縄には珍しい寒波とかで「暖かいけど寒い」不思議な感覚を味わったのだった。結局、沖縄の冬は曇って風があれば肌寒く、太陽が出れば暑いということを知ったのである。

年賀状も書いた、「風来」の原稿も仕上げた、後は10月の柿衞文庫での講演内容の文章化を残すのみである。誰かが師走は気忙しくて読書には向かない月だと言っていたが、まさに同感。従って年が変わってからゆっくり読もうと面白そうな本を集めているところである。「沖縄本」の現地調達も大いに楽しみだ。

「今年の1月6日、沖縄玉泉洞で
それから尾鷲にいると、よほど集中する時以外はラジカセを鳴らしているのだが、沖縄は大気がそのまま音楽のような気がして、何も聴こうと思わない。となりの雑貨屋のおじさんおばさんの声も懐メロのようだ。今の僕は、あの日当たりのいい那覇のアパートの三階で、街の向こうから上がる初日の出を見るために、ボチボチと何や彼やと年用意を始めているところである。

2014年12月7日日曜日

2014年12月7日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(205)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(202)

       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(205)

谷中(その14)
文:山尾かづひろ 

立善寺本堂









都区次(とくじ): 前回は谷中の観音寺でしたが、今回はどこですか?

懐手解いて閻魔像拝みけり   大森久実

江戸璃(えどり): 今回も大矢白星師が8月のお盆休みに谷中を歩いた分のトレースの続きなのよ。というわけで谷中の立善寺(りゅうぜんじ)へ行くわよ。立善寺は日蓮宗の寺院で、長興山と号するのよ。立善寺は、長興院日栄聖人(正保3年1646年寂)が開基となって創建されたそうよ。当所両国矢倉町にあったのが、元和8年に下谷金杉村に一宇を建立、明暦2年下谷御切手町へ移転、替地を受領できず難渋していたところ、茂原妙光寺日俊上人より谷中に297坪を譲り受けることができ、替地として378坪を受領して再建されたそうよ。
都区次:この立善寺は失礼ながら相当の紆余曲折を経て谷中へ移ってきているのですが、寺宝などはあるのですか?
江戸璃:台東区登載文化財になっている木造閻魔王坐像がちゃんとあるのよ。この閻魔王坐像は、高さ約49センチメートル。ヒノキ材を用いて、寄木(よせぎ)造りという技法で造られているのよ。顔は、眉毛を上げ、目は下方を睨み、口を大きく開いたさまで、亡者を恫喝する忿怒(ふんぬ)の相を表現しているのよ。像の底部に記された銘文によって、さまざまなことが判るのよ。作者は仏師・田中形部済時(たなかぎょうぶなりとき)で、天和3年(1683)閏(うるう)5月7日の制作だそうよ。法明院という人物が、同年2月26日に亡くなった孫・教生院善心の供養を思い立ち、教生院の両親・浅野氏夫妻が施主となり、造立したものだそうよ。本像については、文政12年(1829)編集の御府内備考 続編立善寺の項にも記されており、当時、すでに立善寺に納められていたことは確実なのよ。しかし、閻魔王像を安置する日蓮宗寺院は少なくて、立善寺所蔵の記録類には銘文中の法名がまったく見えないので、本像は文政12年までに他の寺院から移されたものであると推定できるそうよ。江戸時代の仏像彫刻は、一部をのぞき定型化した像が多くなるけれど、本像は忿怒の形相、道服の表現などに高い彫技を看取することができるわね。その上、銘文により作者・製作年代・制作目的が明らかであるため、江戸の彫刻美術や閻魔信仰の様相を考える上で、貴重な遺品のひとつとなっているそうよ。

木造閻魔王坐像













木枯しや風の遊びのひとつとも 長屋璃子
寺庭の有象無象も枯れにけり  山尾かづひろ

尾鷲歳時記(202)

柚子と日向ぼこ
内山思考 

ダムの背に水圧静かなる師走  思考 

柚子いっぱい








来年結婚する息子が市内に家を借りた。彼は仕事で日中いないので、電気や水道の工事をする人が来る時だけ、鍵を開けがてら恵子と留守番をするようになった。そこは南向きの二階屋で、前に遮るものがなくとても日当たりがいい。しかも車道に遠くて静かな環境だ。尾鷲市の北、天狗倉山(てんぐらさん)の麓にある内山家の場合は、前方の小さな寺山に陽が早く入るので、冬場のんびりとお天道さんを愛でることは出来ない。その代わり台風の雨や風が強く当たらない利点もあるのだが・・・・・。

寒さに弱い僕たちは、庭に面した大きな窓の内側で、トドかアザラシのように寝そべって工事屋さんの仕事の音を聞いているのが仕事。「ぬくとい(暖かい)なあ、お父さん」と恵子。「そうやなあ」と相づちを打ちながら僕はケータイを使ってのいつもの原稿打ち。「帰りにユズ貰(もろ)てこかお父さん」「うん」。庭の隅に低いユズの木があり黄色い実がいっぱいなっているのである。やがて、終わりましたと作業服のお兄さんが去り、僕たちも帰宅することにした。恵子はユズを三個もいでポケットに入れた。

帰ってからの僕の仕事は年賀状書きである。実は今年は一枚だけ仕上げて、それを百枚プリントしようと考えたのだが、業者に問い合わせたところ結構な出費になることがわかった。それならやっぱり全部手書きにしようと思い直して、来年の干支のヒツジを一匹づつ描く決心をしたのである。

これでヒツジ30匹
思えば昨年末も今年のウマを鼻息も荒く百頭仕上げたものだ。一筆書きのような単純な線で、一匹一匹描いていると、途中でヒツジというよりブタに似ている気がし始めたがめげずに、やっと百匹目を完成。あとは宛名書きを残すばかりにして、次は御飯を炊く用意にかかった。おかずは青木家から連絡が入り次第差し入れの豚汁を頂戴にうかがう手筈になっている。誠に有り難いことで、あとは娘の弥生が帰ってから何か作ってくれる筈の師走某日である。

2014年11月30日日曜日

2014年11月30日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(204)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(201)

       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(204)

谷中(その13)
文:山尾かづひろ 


観音寺本堂









都区次(とくじ): 前回は谷中の領玄寺(りょうげんじ)でしたが、今回はどこですか?

築地には綿虫の舞ふ日暮かな  小熊秀子

江戸璃(えどり): 今回も大矢白星師が8月のお盆休みに谷中を歩いた分のトレースの続きなのよ。というわけで谷中の観音寺へ行くわよ。観音寺は信義真言宗(しんぎしんごんしゅう)の寺院で、慶長年間(1596-1615)神田北寺町に創建され、延宝8年(1680)当地へ移転してきたそうよ。当初長福寺と称してものが、享保元年(1716)観音寺と改称したそうなのよ。赤穂浪士討入りに名を連ねた近松勘六行重と奥田貞右衛門行高がこの寺の6代目住職・朝山大和尚の兄弟であったことから、赤穂浪士討入りの会合にもよく使われ、討入り後には赤穂浪士供養塔が建立されたのよ。
都区次:観音寺の築地塀(ついじべい)は有名だそうですが、教えてください。
江戸璃:この築地塀は瓦と土を交互に積み重ねて造った土塀に屋根瓦を乗せてあるのよ。今では、全国にもそう残っていない貴重なものだそうよ。寸法的には長さが約37メートル、高さが約2メートル。幕末に出来上がったそうよ。


観音寺の築地塀













山茶花や彩りはやも残影に   長屋璃子
烏瓜赤くなるよな半生来    山尾かづひろ

尾鷲歳時記(201)

師走あれこれ 
内山思考  

後ろ向きに歩き来る子や十二月  思考  

岩手日報に包まれた
手作り干し柿













慌ただしい一年がいよいよ慌ただしくなって師走を迎えようとしている。今年を振り返ってみると、僕と恵子はまず2月まで沖縄にいて3月から夫婦間(思考から恵子)の腎移植の準備に入った。4月に恵子が先に入院、5月に手術が終わり6月退院、7、8月通院、9月に恵子再入院、そして10月を経て11月末にとりあえず再退院となったわけである。

彼女の原因不明の微熱と体の痛みは、たぶん大量に服用する免疫抑制剤の影響が大きいというのが医師の診断だ。しかし、四、五時間ごとに負担の少ない痛み止めを飲めば一時のような激痛は緩和されるようなので、懐かしいヒロコさんやタカシさんが待つ沖縄へ、クリスマスの頃には行けるかな、と二人で楽しみにしている。

ところで僕の方は術後、一度に体を動かさなくなったので、体重増、筋力ダウンの兆候が顕著に現れ、いつだったか風呂上がりに「お父さん、何?そのお腹」と娘に白い目で見られたのはちょっと辛かった。そこで考えた。腎臓が一つ無くなったらどんなダメージがあるかと恐れていたが、いざそうなってみると、さほどの違和感はない。

ではもう一度鍛えてみようというので、筋トレを少しづつ再開することにしたのである。もちろん炭焼をしていた昨年までの体型には及ぶべくもないが、筋肉量は心の馬力にも比例するはずなので、加齢に対してこれからもささやかな抵抗を続けるつもりである。

藤沢さんの庭の風景
話は変わって岩手の藤沢さんが北国の便りと産物をたびたび送ってくださるのも楽しみの一つである。内山夫婦の大の苦手である寒さそのものは届かないから、次はどんなメールが来るかな、便り(見事な筆書き)が来るかなと心待ちにしている。何でも藤沢さんの庭には二羽ニワトリはいないようだが、リスやウサギが来訪して、大賑わいなんだそうな。羨ましい、尾鷲は憎いサルかノラ猫しか来ませんと返事したら早速リスの写真を送ってくださった。






2014年11月23日日曜日

2014年11月23日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(203)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(200)

       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(203)

谷中(その12)
文:山尾かづひろ 

領玄寺本堂










都区次(とくじ): 前回は谷中の神院(いしんいん)でしたが、今回はどこですか?

色淡く一輪咲いて返り花  熊谷彰子

江戸璃(えどり):今回も大矢白星師が8月のお盆休みに谷中を歩いた分のトレースの続きなのよ。というわけで谷中の領玄寺(りょうげんじ)へ行くわよ。領玄寺は日蓮宗で、創建年代等は不詳ながら、谷中感應寺(現天王寺)9世領玄院日長聖人が中興したといわれているわね。また領玄寺を中心にしたこの辺りには領玄寺貝塚があるのよ。
都区次:領玄寺貝塚の名が出てきましたが説明してくれますか?
江戸璃:領玄寺の本堂や墓地には貝塚があるけれど、領玄寺を中心に不忍池の谷(根津谷)の東縁に広がる縄文時代中期(紀元前3000年~2000年ころ)の貝塚なのよ。ハマグリ・アサリ等の貝殻、石斧(せきふ)・石鏃(せきぞく)と呼ばれる石製矢じり等の石器、縄文土器などの遺物が発見されているわね。

領玄寺山門










八つ手咲く広き寺庭に憚らず  長屋璃子
屈強の男手出入り冬構     山尾かづひろ

尾鷲歳時記(200)

だいじん汁 
内山思考

老眼にしか見えぬもの冬うらら   思考

汁の写真を撮り忘れてレシピのみ








和田悟朗さんの近作に

だいこんとにんじん鶏肉秋汁に  悟朗

がある。何だかとても美味しそうなので、電話をして、奥さんにレシピを書いて下さいとお願いした。2~3日後の句会の日に、少し早くお迎えに伺うと和田さんはまだテレビの部屋でくつろいでおられ、奥さんが「こういうものですが、お口に合いますかどうか」とホワホワ湯気のあがるお椀を僕の前に置いて下さった。

和田家の急須は左利き用
頂戴しますと箸をとり、「お宅も左利き?」「いえ、本当は右なんですが、和田先生の真似をして二十年来左で食べてます」の会話のあと、ジルジルとひと啜りすると・・・あな美味しや・・・。得も言われぬ旨味が口中から喉へと降りていく。
柔らかく煮えた大根と人参に鶏肉の充実感、舌の上に遊ぶ春雨、それらすべてが胃に届くと同時に滋養となる感じがする。自然に三人は微笑んだ。汁の名は、の問いに和田さんは「だいじんじるや」と答え、「お大尽の汁ですか?」と再度問えば「大根と人参の汁だから」と奥さん。「じゃあ、大参汁…」、「いやあ」と首を傾げて奥さんを見た和田さんは「ひらがなやなあ」「で、汁だけ漢字ですか」「そうや」と言うことで、命名は完了したのである。


「だいじん汁」の作り方は次の通り。
まず材料(三人分)
大根100グラム:厚さ2~3ミリのイチョウ切りに
人参40グラム:厚さ同じで輪切り
トリモモ肉100グラム:ひと口大
出し汁(カツオ):500ミリリットル、
季節の香り、シメジ、エリンギ、ミョウガ、エノキ茸、大根の葉(ヤワラカイ部分)、カイワレダイコン、はるさめ、ウスあげ等々。

作り方
①分量のダシ汁の中へ大根と人参を入れ、柔らかくなるまで煮る。
②野菜が煮えたらトリ肉を一口大の半分位に切ったものを入れ、もう一度煮て薄口醤油で味をととのえる。
③季節の香りを入れ、煮え上がれば完成。

ところで、和田さんのエッセイにたびたび登場する「ワラビ汁」のレシピも欲しいのだが、それは来年の楽しみにしたいと思う。

2014年11月16日日曜日

2014年11月16日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(202)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(199)

       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(202)

谷中(その11)
文:山尾かづひろ 

頣神院本堂









都区次(とくじ): 前回は谷中の延壽寺でしたが、今回はどこですか?

羽虫とび十一月の切通し  佐藤照美

江戸璃(えどり): 今回も大矢白星師が8月のお盆休みに谷中を歩いた分のトレースの続きなのよ。というわけで?神院(いしんいん)へ行くわよ。頣神院は山号を象頭山と呼び、臨済宗妙心寺派の寺院なのよ。湯島麟祥院第八世頑海が本郷湯島に明和5年(1768)に創建し、明治20年(1887)に当地へ移転したそうよ。寺内には帝釈天(たいしゃくてん)が祭られているのよ。幕府大奥・春日局の麟祥院(りんしょういん)とは姉妹関係にあたるそうよ。

都区次:麟祥院の名が出てきましたが説明してくれますか?

江戸璃:麟祥院は東京都文京区にある臨済宗妙心寺派の寺院なのよ。山号は天沢山で、徳川家光の乳母として知られる春日局の菩提寺だったのよ。寛永元年(1624)、春日局の隠棲所として創建。はじめ、報恩山天沢寺と呼ばれたけれど、春日局の法号をもって「天沢山麟祥院」と号するようになったのよ。

麟祥院本堂










初しぐれやさしけれども淋しとも  長屋璃子
傘をさすほどなくやみぬ初時雨  山尾かづひろ

尾鷲歳時記(199)

冬が来て 
内山思考 

冬座敷横切る電気コードかな 思考

妙長寺の薪ストーブ










岩手の藤沢さんから雪便り(メール)が届いた。急に「もっさ、もっさ」と降り出したので、自家用車は冬用タイヤを履いていず、急きょ台車(代車?)で外出した「父ちゃん」が心配だとあった。立冬が過ぎても、尾鷲と名古屋を行き来している僕のまわりにはまだ秋の名残がたっぷり残っていて、北国へいきなりやってきたという冬将軍のイメージが掴めない。メールには(青木)健斉さんと思考さんに吹雪いて前方が見えない状態での走行を体験して貰いたいとあった。新しい除雪車(機)を購入した、とも。

前が見えない程の豪雨なら日本有数の多雨地である尾鷲人はなれているけれど、雪には馴染みが薄いから自家用除雪車がいくらぐらいするものか見当もつかない。藤沢さんたちは来年の雪解けまで一体どんな日常を過ごすのだろう。しかし、いくら東紀州が温暖だといっても冬であることには変わりなく、それどころか、なまじ日中が好天気だったりすると、中途半端な寒さを味わうことになる。灯油ストーブをつけたり消したり、厚着したり一枚脱いだりといった具合で、特に僕などは暑がりの寒がりだから、加減がややこしい。

一言で表現すると、このあたりの冬は「薄ら寒い」冬なのである。先日、句会用の三色ボールペンを買いにホームセンターに行ったら青木夫妻に出会った。薪ストーブが傷んだので買い換えを考えているとのこと。見ればこの地方ではあまり馴染みのない薪ストーブが三点展示されている。妙長寺の玄関の三和土には小さな薪ストーブがあって、訪れた客はホカホカとした温もりを感じながら応対を受けるのである。

わが家は湯たんぽ派
暖を取るとよく言うが、電気、湯、ガス、灯油それぞれの持ち味がある中で、やっぱり「赤い炎」の暖かさが一番人間を癒やしてくれる。チロチロと燃える炎は体の奥に眠っている原始の記憶を蘇らせてくれるようである。これから本番を迎える尾鷲の冬、青木家を訪れる客をどんな薪ストーブが迎えてくれるのだろう。

2014年11月9日日曜日

2014年11月9日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(201)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(198)

       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(201)

谷中(その10)
文:山尾かづひろ 

延壽寺本堂










都区次(とくじ): 前回は谷中の宗善寺でしたが、今回はどこですか?

神の旅気候不順も仕方なく  冠城喜代子

江戸璃(えどり): 今回も大矢白星師が8月のお盆休みに谷中を歩いた分のトレースの続きで、延壽寺(えんじゅじ)へ行くわよ。延壽寺は日蓮宗の寺院で第四代将軍徳川家綱の時代の明暦2年(1656)に開創されたのよ。その後、宝暦5年(1755)に身延山本坊より日荷上人像を勧請して現在も日荷堂に安置されていて、毎月一日と十日に開帳されているのよ。

都区次:その「日荷上人」とはどういう方ですか?

江戸璃:日荷上人は南北朝時代(1336~1392)の僧侶で出家前は横浜市金沢区六浦あたりにの裕福な商人だったらしいけれど詳しいことは分らないそうよ。その上人の「健脚の神様」として崇める偉業を伝える話が残っているのよ。ある夜、六浦妙法(日荷上人という尊称を授かる前の法名)の夢枕に仁王尊が現れてね「自分は称名寺の仁王だが改宗して身延山の守護神になりたい。お前の力で身延山へ送り届けてほしい」というお告げをうけたのね。称名寺にかけあったけれど、もちろん聞き入れてもえないわよね。そこで妙法はある夜、ひそかに山門から仁王尊二体(相当大きい)を担ぎ出し、それらを背負うこと三日三晩、横浜の地から富士山の裏にある身延山まで歩き通しに歩き、奉納に成功しっちゃったのよ。ことの次第を聞いて身延山の住僧はビックリ仰天よね。現在伝わる「日荷」の尊称は、このときの住僧が妙法の怪力と篤い信仰心に感激して授けたものだそうよ。「日」はもちろん、日蓮宗の開祖である日蓮大聖人から、「荷」の文字には「荷物」の他にも「任務」や「責任」といった意味があるそうよ。

日荷上人像









日を吸ふて古りし土塀に暮早し  長屋璃子
健脚の僧侶と伝へ石蕗の花    山尾かづひろ

尾鷲歳時記(198)

霜月の朗報 
内山思考 

半熟の冬の太陽浮く朝餉   思考

僕の投稿文








沖縄のヤカブさんから電話があった。「新聞に思考さんのが載ってましたよ」。僕はその意味がすぐわかった。一週間ほど前に沖縄の新聞、琉球新報の「声欄」に投稿をしたからである。いきさつはこうだ。活字好きの僕が、沖縄に行くたびに地元の新聞を読みたがるので、ひろこさんが那覇の自宅でとっている琉球新報を、いつもまとめてとっておいてくれた。ところが今年は、僕と恵子の腎臓移植があって春からずっと那覇のアパートに帰ってない。

「体調が整ったらすぐ戻りますから」電話するたびに沖縄を恋しがる僕を可哀想だと思ったのか、ひろこさんはわざわざ新聞を尾鷲へ郵送する手続きをしてくれた。沖縄では「琉球新報」「沖縄タイムス」の2紙が主流で、僕は滞在中にヤマトの新聞を見かけた記憶はない。新報、タイムスのどちらも沖縄の熱いニュースが満載で甲乙つけがたい。たまたまひろこさんが新報の購読者だったため、僕もその紙面に馴染んでしまったわけである。

中央紙が日本経済の先行きや原発再稼働を大見出しに据える時も、沖縄紙は米軍基地の移設問題、県知事選挙報道がトップで、文化、教育、地方のイベントにも大きくウェイトが置かれている。内容は実に充実している。中でも楽しみは4コマ漫画「がじゅまるファミリー」で、とにかく登場するキャラクターが「世間ずれ」していないし起承転結に嫌みがない。「ほのぼの」などという当世、絶滅危惧語に指定してもいいような感情が見る度に湧いてきて、感動的であったりもする。

ひろこさんの幼なじみ、
芸達者なたかしさん
例えば、親と一緒に七夕の飾りをする孫が祖父母に「オジー、オバーは願いごと書かないの?」と問うと、2人は子と孫の顔を眺めながら「もう願いはかなっているから」とほほえむのである。これなど4コマ漫画の傑作といって良かろう。三重県にも読者がいることを沖縄の人たちに知って貰いたくて、僕は声欄への投稿を思い立ったのである。掲載して下さった編集部の皆さん本当に有り難う御座います。

2014年11月2日日曜日

2014年11月2日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(200)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(197)

       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(200)

谷中(その9)
文:山尾かづひ 

宗善寺本堂









都区次(とくじ): 前回は谷中の臨江寺でしたが、今回はどこですか?

きっぱりと路地掃かれあり野紺菊   吉田ゆり

江戸璃(えどり): 今回も大矢白星師が8月のお盆休みに谷中を歩いた分のトレースの続きなのよ。というわけで谷中の宗善寺(そうぜんじ)へ行くわよ。宗善寺は真宗大谷派の寺院で、山号を向岡山というのよ。元和5年(1619)湯島に創建され、寛永6年(1629)下谷へ、天保10年(1839)当地へ移転したといわれているわね。
都区次:ところで宗善寺は真宗大谷派とのことですが、本山はどこですか?
江戸璃:京都市下京区烏丸通7条にある「真宗本廟」なのよ。通称は「東本願寺」とか「お東さん」と呼ばれているわね。JRの京都駅から徒歩で7分ほどなのよ。こんど気候のよい時に京都見物をしてゆっくり見てみましょう。


東本願寺








茶も咲けり谷中に寺と坂いくつ  長屋璃子
茶の花や谷中に数多の知らぬ道  山尾かづひろ

尾鷲歳時記(197)

冬支度いろいろ 
内山思考 

養老の滝壺となり新酒くむ 思考

石蕗の花が咲く柿衞文庫の庭








柿衞文庫での「北山河、人と作品」の話が無事に終わって、僕の中で何か大きなものがゆっくりと遠ざかって行くのを感じている。強いて言うとしたら、子供の頃の祖父「田花思考(房吉)」の記憶とそれに繋がる北山河、北さとりの名前だけのイメージ、あと自分が俳句を始めてからの「大樹(主幹北さとり)」の思い出などである。事前の下調べで、祖父の残した旧号を昭和初期の創刊時代から読んだのだが、たくさんの誌友、同人の俳句や文に触れる内に、血縁ならぬ俳縁の系図を辿っているような懐かしさを覚えた。つまり、その時々、みんな一生懸命に生きていたんだな、という感慨である。

あらためて今回、祖父と孫(僕)の二代の俳恩を総括する機会を下さった大阪俳句史研究会の方々に、厚くお礼を申し上げたい。会の後の打ち上げで、朝妻力さんや辻本康博さんが、楽しそうに杯を傾けるのを見ていたので、帰路の車中で冒頭の句が浮かんだ。あとは連想で

俳談や下戸は秋水もて酔わん
バッカスも酒仙も笑うキノコ鍋
おかわり」は魔法の言葉秋思なし
子規よりの俳諧の縁柿の園(えん)
秋の旅酒杯の舟を乗り換えて 

気がつけば11月である。ハロウィンの黒とオレンジの飾り付けが消えた後の店先は、知らぬ間に赤と白と緑色のクリスマスカラーに染まるだろう。少し早いが

クリスマスとは色で来る音で来る  思考

あれ「音と色」だったかな?早いもので、それぞれに365日の未来を内蔵した2015年用のカレンダーが幾つか届き、年賀はがきも売り出されたそうだ。

農家から頂いた柿、味よし
今朝届いた藤沢さんのメールによると「岩手山は中腹まで雪が積もりました」とか。北国の冬支度はもう始まっているのだろう。雪も氷もめったに見られない尾鷲では、服と布団を少し厚くして、ストーブ用の灯油を買って置くぐらい、まして沖縄なら秋の延長のようなものである。年末の那覇へ、寒さに弱い恵子と2人で行く予定ではいるのだがどうなることか。

2014年10月26日日曜日

2014年10月26日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(199)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(196)

       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(199)

谷中(その8)
文:山尾かづひろ 

臨江寺本堂










都区次(とくじ): 前回は谷中の瑞松院でしたが、今回はどこですか?

谷中寺町三叉路五叉路柿の秋  畑中あや子

江戸璃(えどり): 今回も大矢白星師が8月のお盆休みに谷中を歩いた分のトレースの続きなのよ。というわけで谷中の臨江寺へ行くわよ。臨江寺は臨済宗大徳寺派の寺院で、圭山宗撲が寛永7年(1630)頃下谷池之端に臨江庵として創建、延宝9年(1681)当地へ移転したそうよ。臨江寺には幕末の勤王家である蒲生君平の墓があって、国史跡に指定されているのよ。君平は幼児期から学問に励み、昌平黌で学んだ鹿沼の儒学者鈴木石橋の麗澤舎に入塾。水戸藩の勤王の志士藤田幽谷の影響を受けて、曲亭馬琴、本居宣長ら多くの人物の知己となってね。京都では歌人小沢蘆庵の邸に滞在して、天皇陵を研究。佐渡島の順徳天皇陵までの歴代天皇陵を旅したのよ。伊勢松坂の本居宣長を訪れ、大いに激励を受けてね。調査の旅から帰郷した後は、江戸駒込で享和元年(1801)『山陵志』を完成したのね。その中で古墳の形状を「前方後円」と表記し、そこから前方後円墳の言葉ができたわけ。その後は江戸に住み、大学頭林述斎に文教振興を建議しているわね。構想していた9志のうち借金で『山陵志』『職官志』まで出版したけれど、文化10年(1813)病に伏し赤痢を併発して46歳で病没。明治2年(1869)その功績を賞され、明治天皇の勅命の下で宇都宮藩知事戸田忠友により勅旌碑が建て、さらに明治14年(1881)5月には正四位が贈位されてね。その他、宇都宮市の蒲生神社に祭神として祀られているのよ。

蒲生君平の墓











点景の人動きたり花芒   長屋璃子
いくらでも広き空ある花芒 山尾かづひろ



尾鷲歳時記(196)

新刊が届いて 
内山思考 

ゆるやかに垂れゆく時間林檎むく   思考

カバーデザインが
楽しい新刊













ヤマネ博士の湊秋作先生から新しい著書が届いた。経団連出版の「企業が伝える生物多様性の恵み」がそれだ。(環境教育の実践と可能性)の副題がついていて、湊先生と、自然保護、環境教育の2人の専門家による共著である。タイトルが示すように内容は、学校や企業向けの「環境教育手引き書」ということらしい。実は今までの湊先生の著書は、子供でも親しめるイラストいっぱいの本が多かったので、今回もそんなイメージを抱いていた僕には正直意外だった。

咳払いをして真顔で恐る恐る読み始める(ちょっとオーバーか)「実践編」「企業編」は一流企業の自然に対するさまざまな取り組みや、その進め方が記されていて、「営利事業」イコール「自然破壊」はわれわれの一方的な偏見なのかと思う。「基礎編」を読んで湊先生の筆だなと気づいた。一言づつゆっくり語って聞かせるような明快な文章、その間に「海は森の恋人」「自然は子供の先生」など印象深いキャッチフレーズが登場する。

これだこれだ。僕が昨年の正月、四十何年ぶりの高校同窓会で彼に興味を持ったのも、会場のほとんどが久闊を癒やす方に気を取られて賑わう中、ヤマネのスライドを説明する姿に人柄がにじみ出ていたからだ。「きっとこの人は充実した人生を送っている」その感覚が間違いでないことを、後に送ってもらった数冊の著書で確信した。まさに「文は体をあらわす」わけで、僕の知るところでは和田悟朗さんもその典型である。和田さんの著した化学の専門書など、あの和田さんが書いていると思うだけで、実際に講義を受けている気持ちになってくるから不思議である。

僕と湊くん中学も一緒、
那智中卒業アルバム
じゃあ専門的な内容が全て理解出来るのか、と問われれば「否」と言うしか無いが、それはこちらの素材がお粗末なだけのことでさほど問題ではない。難解な部分があったにしても何かの折にふと手に取りたくなる「メンタル・ハーブ」とも言うべき一冊、今回それが新たに座右に加えられたのは嬉しいことである。

2014年10月19日日曜日

2014年10月19日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(198)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(195)

       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(198)

谷中(その7)
文:山尾かづひろ 


瑞松院本堂










都区次(とくじ): 前回は谷中の本寿寺でしたが、今回はどこですか?

走り根に窪にどんぐりかくれんぼ 大森久実

江戸璃(えどり): 今回も大矢白星師が8月のお盆休みに谷中を歩いた分のトレースの続きなのよ。というわけで谷中の瑞松院へ行くわよ。瑞松院は臨済宗妙心寺派の寺院で、開山は僧渓山で、寛文4年(1664)に玉林寺境内に創建したといわれているわね。有名人の墓としては小説家の新田潤(明治37年~昭和53年)が眠っているわね。新田潤は長野県上田市出身で、本名は半田祐一。高見順らと『人民文庫』を創刊、プロレタリア作家として活動。戦後は風俗小説も書いたわね。代表作は『片意地な街』『太陽のある附近』『禁断の果実』『色事師と女』等があるわよ。

瑞松院山門











どんぐりの落ち尽くしてや暮色濃し  長屋璃子
菊芋焼く墓地に迫りし切り岸に    山尾かづひろ

尾鷲歳時記(195)

晩秋の橋を渡る 
内山思考 

直線を投げかけている芒かな 思考

自宅前の路地













相変わらず尾鷲と名古屋と桑名を行ったり来たりしている。つまり自宅と、恵子の入院している病院と下宿替わりの姉の家である。恵子はヘルペスではなくただ身体が痛いという自覚症状だけで、担当医も今のところ原因がわからないそうだ。移植した腎臓は元気に働いているというのに一体どうしたことだろう。僕は洗濯と買い物などの雑用以外は、個室の南窓際のソファーに座り、向かい合わせにしたパイプ椅子に脚を投げ出して、一日中、本を読んだり原稿をコチコチ打ったりしている。

テレビ(音量小)はついたりついてなかったり。部屋には医師や看護師さんの他に、長いホースの掃除機を操るお兄さん、モップかけのおじさん、洗面所トイレ掃除、お茶入れのお姉さんおばさんたちがたびたびやってくる。医師看護師以外はみな伏し目がちにもくもくと自らの仕事を片付け、一礼して去ってゆく。

内山夫婦は、2月に沖縄から帰って3月の検査入院から半年間の大部分はこの病棟にいる。だから顔見知りも何人かいて、たまにこちらから話しかけることもある。「いい天気やね」「台風大丈夫だった?」「日が短くなってきましたね」などなど。二言三言交わす内に表情が柔和になるのを見ながら、僕はその人の日常の1コマに触れたことを喜ばしく思い、時には、この人はどんな人生を送って来たのかな、と余計な想像を膨らませたりもする。

林檎のある窓辺
やがて4時。そろそろ帰宅(桑名へ)時間だ。立ち上がってスクワットを30回。座りっぱなしだから、これをしないと全身の気が巡らない。それから恵子が調子のいい時は、1日分の原稿にざっと目を通して貰いながら、大きな東向きの窓の外、白い街の凸凹に陰が染みてゆくのを眺める。この日曜日は「風来」の句会だし、次の土曜日は伊丹市の柿衞文庫まで足を延ばして「北山河、人と作品」を語る予定。思考によって伸び縮みする時間と空間、僕と恵子は今、目に見えない大きな橋を渡っているところである。

2014年10月12日日曜日

2014年10月12日

■ 俳枕 江戸から東京へ(197)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(194)

       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(197)

谷中(その6)
文:山尾かづひろ 


本寿寺本堂










都区次(とくじ): 前回は谷中の玉林寺でしたが、今回はどこですか?

初紅葉アンティック調の喫茶店 小熊秀子

江戸璃(えどり): 今回も大矢白星師が8月のお盆休みに谷中を歩いた分のトレースの続きなのよ。というわけで谷中の本寿寺へ行くわよ。本寿寺は日蓮宗の寺院で、本寿院日栄聖人が開基となり慶長19年(1614)神田寺町に創建、慶安3年(1650)当地へ移転したと言われているわね。日蓮宗寺院では、日蓮上人像は宗祖の像として大切にされているのよ。本寿寺も日蓮上人像を本尊として、本堂の須弥壇上に安置されているのよ。この像は、僧綱襟(そうごうえり)という後ろの襟が高い法衣(ほうえ)を着て七条袈裟(しちじょうけさ)をかけ、左手に経巻、右手に笏を持って坐しており、定型化された日蓮上人像を表しているわね。ヒノキ材の寄木造で、表面には胡粉地の上に彩色が施され、玉眼(ぎょくがん)が嵌め込まれているのよ。なお、持ち物や彩色は後の時代に補われたものだそうよ。穏やかな表情、柔らかな衣文の線などに質の高い彫技が見られ、作風から室町時代後期の作品と思われるそうよ。また、この像は本格的な制作技術を用いた中世末の作品だそうね。台東区内に現存する中世の祖師像は少なくて、同時代の様相を知る上で貴重な作品といわれているそうよ。

日蓮上人座像











受け止むるもの数多なり草の絮   長屋璃子
風まかせ草の絮ならなほのこと   山尾かづひろ

尾鷲歳時記(194)

時間を歩く空間を過ごす
内山思考

月蝕や大樹に隠れつつ進む   思考

このゼッケンで歩きました。









今年は10月が台風の月らしい。青木ご夫妻が瀬戸内海のしまなみ海道を橋伝いに歩くイベントに参加されると聞いて、僕は正直心配だった。週末のちょうどその前後に合流するように大きな台風が近づいていたからだ。しかし、あまり天候のことに触れるとかえって遠ざけたい対象が「ん?」とこちらへ注意を向けそうなので、深く考えないでおこうと思った。

台風来(く)悪友のごと僕をめざし  思考

そして台風が水煙を立てて、四国、近畿をゴリゴリ擦りながらやってきた日曜の夜、僕は桑名の姉の家にいた。恵子は病院の中だから心配ないし、尾鷲の子供たちも「よう降っとるけど別に」の連絡あり。とにかく尾鷲というところは、狭い町なのに三本の川(矢の川、中川、北川)があって水捌けがよく、水害が起こりにくいのだ。ただあまりに降水量が多い場合、湾内が淡水化して養殖魚に被害がでることもあるが。

テレビのレポーターが、他局に負けるものかとでも言うように台風接近を告げる中、お上人たちはどうしてるかなと留守番の副住職に打ったメールの返事が来た。1日予定を縮めて帰宅したらしい。僕は軽く溜め息をついた。ああやっぱり雨に祟られたんやな、楽しみにしておられたのにお気の毒に。明くる日、恵子のカーディガンを取りがてら郵便物を確かめがてら自宅に戻ったので、妙長寺へ寄ってみることにした。

今から旅するハガキ
「思考さーん」と奥さん。お上人も出て来られる。恵子の様子など説明してから、それはそうと(ウォーキングは)どうでしたか、と聞くや否や二人は破顔し「それが」「ちょうど」「何にも」「私たちが」「そ、歩く間だけ」と息の合ったハーモニー。つまり台風の影響が及ぶまでに予定の橋歩きを完遂したというのだ。それはよかった。高見からの眺望はさぞや素晴らしかったろう。随分以前からの夢だった、約20キロの「空中散歩」を満喫した青木ご夫妻の笑顔は、まことに爽やかなものであった。

2014年10月5日日曜日

2014年10月5日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(196)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(193)

       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(196)

谷中(その5)
文:山尾かづひろ 


玉林寺本堂










都区次(とくじ): 前回は谷中の全生庵でしたが、今回はどこですか?

椎の実や父の気質を受け継ぎて 熊谷彰子

江戸璃(えどり): 今回も大矢白星師が8月のお盆休みに谷中を歩いた分のトレースの続きなのよ。というわけで谷中の玉林寺へ行くわよ。玉林寺は言問通り沿いにある曹洞宗の寺で、天正19年(1591)に用山元照和尚により創建された古刹で、本堂裏には都の指定天然記念物である樹齢600年の椎の大木があるのよ。このお寺は千代の富士(九重親方)の菩提寺というつながりがあるとのことで、2011年には、第58代横綱の千代の富士を讃える像が建立されているわよ。千代の富士は、北海道松前郡福島町出身の第58代横綱で、国民栄誉賞も受けている名横綱なのよ。三女が夭逝し、この寺に眠っているそうなのね。境内は近隣の住宅地への抜け道ともなっており、夏祭りなどが開催される憩いの場でもあるのよ。


横綱千代の富士像










椎の実の帰るべき地に寺の庭 長屋璃子
天気図に台風の渦椎大樹   山尾かづひろ