2014年10月26日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(199)

谷中(その8)
文:山尾かづひろ 

臨江寺本堂










都区次(とくじ): 前回は谷中の瑞松院でしたが、今回はどこですか?

谷中寺町三叉路五叉路柿の秋  畑中あや子

江戸璃(えどり): 今回も大矢白星師が8月のお盆休みに谷中を歩いた分のトレースの続きなのよ。というわけで谷中の臨江寺へ行くわよ。臨江寺は臨済宗大徳寺派の寺院で、圭山宗撲が寛永7年(1630)頃下谷池之端に臨江庵として創建、延宝9年(1681)当地へ移転したそうよ。臨江寺には幕末の勤王家である蒲生君平の墓があって、国史跡に指定されているのよ。君平は幼児期から学問に励み、昌平黌で学んだ鹿沼の儒学者鈴木石橋の麗澤舎に入塾。水戸藩の勤王の志士藤田幽谷の影響を受けて、曲亭馬琴、本居宣長ら多くの人物の知己となってね。京都では歌人小沢蘆庵の邸に滞在して、天皇陵を研究。佐渡島の順徳天皇陵までの歴代天皇陵を旅したのよ。伊勢松坂の本居宣長を訪れ、大いに激励を受けてね。調査の旅から帰郷した後は、江戸駒込で享和元年(1801)『山陵志』を完成したのね。その中で古墳の形状を「前方後円」と表記し、そこから前方後円墳の言葉ができたわけ。その後は江戸に住み、大学頭林述斎に文教振興を建議しているわね。構想していた9志のうち借金で『山陵志』『職官志』まで出版したけれど、文化10年(1813)病に伏し赤痢を併発して46歳で病没。明治2年(1869)その功績を賞され、明治天皇の勅命の下で宇都宮藩知事戸田忠友により勅旌碑が建て、さらに明治14年(1881)5月には正四位が贈位されてね。その他、宇都宮市の蒲生神社に祭神として祀られているのよ。

蒲生君平の墓











点景の人動きたり花芒   長屋璃子
いくらでも広き空ある花芒 山尾かづひろ