2014年6月22日日曜日

2014年6月22日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(181)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(178)

       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(181)

山手線・浜松町(その1)
文:山尾かづひろ 


小便小僧












都区次(とくじ):前回は三田台地の広岳院でしたが、今日はどこへ案内してくれますか?

夏服の小便小僧の襟直す 佐藤照美

江戸璃(えどり): 田町から山手線に一駅乗って浜松町へ行くわよ。浜松町駅は羽田空港へ行く東京モノレールへの乗り換え駅として知られているけれど小便小僧の像のある駅としても有名なのよ。像は山手線外回り・京浜東北線南行ホーム(3・4番線ホーム)の田町寄りにあるのよ。この像は昭和27年、鉄道開通80周年記念のとき当時の駅長が駅の嘱託歯科医を通じて民間から貰い受けたものだそうで、季節ごとに服を着替えさせているそうよ。駅を出て大門を見に行くわよ。「だいもん」と読むのよ。「おおもん」と読んだら吉原の門になっちゃうのよ。大門は増上寺の寺域全体の入口という意味で正式には増上寺惣門というそうよ。慶長3年(1598)に江戸城の拡張・造営にあたり、増上寺が芝に移転した際、それまで江戸城の大手門だった高麗門を、徳川家康により寺の惣門として譲られたものなのよ。その大門は大正十二年(1923)の関東大震災により倒壊して、両国・回向院に移築されたけれど空襲で焼失しっちゃったのよ。現在の大門は昭和12年に国道の整備のため、旧大門より大きく、コンクリート製に作り直されたものなのね。さて、大門の南側には首尾稲荷という稲荷社があって、文豪・尾崎徳太郎(紅葉こうよう)の誕生地なのよ。稲荷社に紅葉の「囀りの下に小さき祠かな」の句があるわよ。紅葉は慶応3年(1867)牙彫師(げぼりし)谷斎(こくさい)の子に生れ17歳で日本最初の文学団体「硯友社(けんゆうしゃ)」を結成して近代文学の先駆となったのよ。号も増上寺の紅葉山(もみじやま)からとり、『金色夜叉(こんじきやしゃ)』などの芝育ちの気風をよく表した作家だったのよ。また紅葉は弟子の泉鏡花の『婦系図(おんなけいず)』の真砂町の先生のモデルだったそうよ。
都区次:夕方になりましたが、今日はどうしますか?
江戸璃:浜松町南口の居酒屋の天狗のさいころステーキで生ビールを飲みたくなっちゃった。
都区次:いいですね。行きましょう。

大門












黒南風や標識しるく大門と  長屋璃子
紅葉の生誕の土地梅雨晴間  山尾かづひろ



尾鷲歳時記(178)

沖縄戦のこと
内山思考


 地を踏むは骨踏むことや沖縄忌   思考

那覇の古書店で
お宝発見













昭和20年6月23日は沖縄戦が終了した日とされる。しかし、実際はその後も戦闘は続いていたようだ。たびたび沖縄を訪れて観光目線が薄らぎ、やがてアパートを借りて沖縄で多くの時間を過ごすようになってから、僕は戦後七十年がこの地にはそんなに遠いものでないと気づいた。戦史を読んだあと街を歩くと、いたるところに激戦の地名が見られ、ああ空間はそのままそこに残っているのだと感じ、いつもは朗らかな知人たちに「戦争時はどうされてましたか」と聞くと、驚くような経験を昨日のことのように語り始めるのだった。

幼児だったケイコさんは、声を出してこちらの存在が知られるのを怖れた母親の手で、芋を押し込んだ口を塞がれたそうだ。隠れた蘇鉄の向こうを行く米兵の姿をはっきり覚えていると言った。それで窒息死した子もいたねと吐息をつくヒロコさんの父親は、小銃で撃たれ家族に思いを残しながら失血死した。その時、手当て出来なかった悔しさからヒロコさんは戦後苦学して看護師の道に進んだのだ。

産まれたばかりの子を抱いて山を逃げ惑ったナエ姉さんが「頭の上を艦砲の弾が飛ぶ音ときたら」と言ったあと目を瞑って首をすくめた時、ヒロコさんが「姉さん、あの時何処にいたの?」と問うた。同じ集落出身で八十年近い付き合いをしていても、当時のことにあまり触れないようだ。二人の会話に耳を傾けながらも僕は、興味本位でヒロコさんやナエさんたちのつらい記憶を引き出させたことを強く恥じた。

ケイコさん二人、ヒロコさん二人
古宇利島にて
そして、もっと以前に南風原(はえばる)陸軍壕を案内して貰ったUさんを思い出した。Uさんはこう言った。「ボクの叔父夫婦は行方知れずのままです。このあたりまで逃げて来たのは確かなんですが。だからここにあまり来たくない、叔父たちの骨を踏んでいるような気がするものですから」、「すいません」と恐縮しながらその時、僕の心の中に浮かんだのが冒頭の一句だったのである。