2015年3月1日日曜日

尾鷲歳時記(214)

サヨナラは言わない 
内山思考 

春雨の那覇にも教え子が一人  思考

今年頂いた賀状①と②









僕が「俳人、和田悟朗」を知ったのは平成二年のこと、戦前戦後に祖父が所属していた「大樹(昨年終刊)」に入会させて貰って、結社集会のあとだったかに先輩方と喫茶店で雑談をしている時だった。

春の家裏から押せば倒れけり

の一句が皆の話題だった。作者は奈良女子大の名誉教授だという。隅の方で小さくなって耳を傾ける新入りの僕に、それはどこか遠い世界の話のような気がした。翌年の秋、子規の存在した空間を歩こうと松山へ一人旅をして書店に入ると、「俳句と自然」という本を見つけた。

著者、和田悟朗の名に見覚えあり。冒頭に置かれた「春めくや物言う蛋白質に過ぎず・菟原逸朗」も面白いと思い購入した。ちょうど接近中の台風に追われるように1日予定を早め、帰りの電車に揺られつつ読んだゴロウ文の明解さに、僕は忽ち魅了された。内容に応じて、自作もさり気なく添えられる。

太古より墜ちたる雉子(きぎす)歩むなり  悟朗

ああ、この四次元感覚は何なのだ。和田悟朗ってどんな人なのだろう、会ってみたい。僕の胸に強硬堅牢な学者俳人のイメージが出来上がった。最初に会ったのはそのまた翌年、現俳協の大阪大会である。式典が始まったのに先生方の中の「和田悟朗」の名札のところだけ空席だ。今日は会えないのか、と落胆していると、会場の後方から、ショルダーバッグを提げたノーネクタイの男性が静かに現れ、件の席に腰掛けた。

近所のガジュマル、
恵子も随分元気に
司会が「和田先生が到着されました」と言うと万雷の拍手が湧き、どうも、と先生は微笑んだ。あれから20数年の歳月が流れ、今僕は、那覇のアパートで和田悟朗先生を偲んでいる。花谷清さんが告別式の模様を知らせて下さったので、お通夜もその日も出席出来ず、先生にも同人の皆さんにも申し訳無い、とメールすると、折り返し「葬儀参列の可否と、和田先生を理解し慕う気持ちは別です」との返事。文面を見ている内に、堪えていた涙が一度に溢れ出した。