2014年7月27日日曜日

尾鷲歳時記(183)

大樹の蔭を離れる
内山思考 

十薬や庭を見捨てしにはあらず 思考

大樹終刊号、表紙画もさとり主宰









僕の所属していた俳誌「大樹」が980号をもって長い刊行の幕を閉じた。北さとり主宰は巻頭言の最後を『・・・・・戦時には他誌との合同誌の時もあったが、その後また復活して、今まで続けることが出来たが、この号を以て「大樹」は終刊となる。皆様、今後、お大事になさって下さい』と結んだ。あっけないほどの短い文末がかえって余韻を呼び、しばらくそのページから目が離せなかった。とうとうこの日がやってきたのだ。「じいちゃん終わったで」と僕は呟いた。

「大樹」は昭和28年生まれの僕がものごころついた時、すでに祖父房吉(先代思考)の所属する俳句雑誌として存在していた。創刊時は芦田秋窓(双)だった主宰を北山河が引き継ぎ、山河が昭和33年12月に急逝すると、周囲の人々は愛娘さとりを後継者として推した。それから半世紀以上の時間が轟々と流れ流れて、今回の終刊となったわけである。

僕がその大樹の時間を共有するようになったのは、昭和62年、三十歳の春だった。きっかけがあって一人で句作を始めたものの、俳句関係の繋がりは皆無。そんなある日、総合俳誌に「北さとり」の名を発見したのである。田花思考の孫ですが・・・、と遠慮がちに書いたハガキに、さとり主宰は直ちに暖かい返事を下さった。「久しぶりに懐かしいお名前を拝見しました。田花先生には兄が教わりました。私は母(しな女)と同人たちとで先生のいる十津川へ旅したこともあります」

これがきっかけで、僕はその後たくさんの俳縁を頂くことになったのである。小学校教師をしていた祖父は長男の實(僕の父)をつれて昭和18年春まで大阪豊中市に住んでいた。妻の待つ田舎に帰った喜びを 

つばくらめ巣くう我が家に帰りけり  田花思考 


山河が祖父に贈った軸
「純情は耕す大地にもしゅまむ」
と詠んだ房吉は、孫の晴雄がやがて自分の俳号を横取り?して、大樹の終刊を見届けるとは思ってもいなかったに違いない。10月25日、僕は伊丹市の柿衞文庫で北山河を語ることになっている。