2014年9月14日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(193)

谷中(その2)
文:山尾かづひろ 

瑞輪寺本堂









都区次(とくじ): 前回は谷中の大雄寺でしたが、今日はどこですか?

峰雲に力の残る谷中かな 吉田ゆり

江戸璃(えどり): 今回も大矢白星師が8月のお盆休みに谷中を歩いた分の続きなのよ。というわけで日蓮宗の瑞輪寺へ行くわよ。この寺は徳川家康に縁のある寺なのよ。開山は慈雲院日新上人で、上人は徳川家康公が幼少の頃、学問教育の師範だったのよ。そして家康公は天下統一の後、天正十九(1591)年に学問教育に預かった謝儀をあらわし、日本橋馬喰町に身延山久遠寺の布教所として、寺の敷地約200メートル四方を与え、瑞輪寺が創建されたのよ。その後、類焼に遭って同六(1601)年に神田に移転して、慶安二(1649)年この谷中に移ってきたのよ。また瑞輪寺には都指定旧跡の大久保主水の墓があるのよ。主水は通称藤五郎という三河国の武士で、徳川家康に仕え三百石を給されていたのよ。一向一揆のときに足を負傷してから戦列に加わらず、餅菓子を作る特技を生かし、以後、家康に菓子を献じたというのね。 天正十八年(1590)家康は江戸に入り町づくりを始めたでしょう。用水事業を藤五郎に命じてね、藤五郎は武蔵野最大の湧水池である井の頭池、善福寺池を源に、それぞれの池から流れる河流を利用して、江戸城ならびに市中の引水に成功したのね。これを神田上水といい、江戸の水道の始まりであり、また我が国水道のさきがけであったのよ。 この功により、藤五郎は家康から「主水」の名を賜り、水は濁らざるを尊として「モント」と読むべしと言われたそうよ。以来、子孫は代々主水と称し、幕府用達の菓子司を勤めたそうよ。

大久保主水墓













曼珠沙華神田上水目裏に   長屋璃子
江戸の水支へし侍曼珠沙華  山尾かづひろ