2015年8月9日日曜日

尾鷲歳時記(237)

残暑の故山 
内山思考 

写真には皆生きていて八月来  思考 


北星師に宛てた祖父の手紙








暑い話ばかりでなく涼しさを呼ぶネタは何ぞ無いかいな、と考える内に、先月、元の所属誌「大樹」の俳画などを主宰宅で整理していた時に、自分の祖父田花思考(房吉)が北山河(旧・北星)師に宛てた便りがあったのを思い出した。それについて少し・・・。

差出日は昭和十年八月十日で80年前のこの季節。当時、大阪豊中市に小学校教師として勤めていた祖父は、夏休みで奈良県十津川村に帰省中、「大阪はまだお暑い事でしょう。不肖も先月二十三日大阪発同夕刻大きなルックサックに土産物やら着物やら酒の果てまで七貫目(約26キロ)位の荷物を」詰め込んで多くの徒歩も含めて我が家に辿り着いたら、子供達(僕の叔父叔母)が大変大きくなって居て喜んで迎えてくれた、とある。

翌日からは山の下刈り草刈りに精を出し、盆までに大半は片付いたので、休養がてら一里下流の十津川本流(現在はダム湖)へ鮎釣りに出掛けた。しかし素人の悲しさ釣果の方は、初日四尾、翌日七尾三日目二尾。明治二十六年生まれ42歳の祖父は「よく捕る人は一日百尾」と羨ましがりつつ、「清流を下る筏を、上る川舟を見て」「浮世にもまだこんな清浄な地域もあるもんだ」とリラックスした様子が窺える。


鮎釣るに筏師からかいて下りけり
祖父の句
大都会大阪で長男實(僕の父)とやもめ暮らしをする身には掛け替えのない時間が過ごせていたのだろう。電気燈の普及した十津川で思考の村はまだ洋燈生活、でも「衣食住ほとんど自給自足で月に三十円もあれば楽に暮らせる」と田舎自讃をし「一度先生も是非共お遊びにお出でを願ひます。」と筆を置いている。数年後、日本は第二次大戦に突入してしまうのだが、この手紙を投函した祖父にはまだ夏休みがしばらく続くのであった。