2011年3月27日日曜日

尾鷲歳時記(10)

大矢数のこと
内山思考


  韋駄天に山路は夢のごときかな   思考 


井原西鶴(像)さんと対面
生國魂神社にて



 






記憶に間違いがなければ、大矢数は夏の季語だったと思う。京都三十三間堂の通し矢にしても、大阪生國魂(いくたま)神社の大矢数俳諧にしても、今のように照明や空調の設備が整っていない江戸時代のことだから、日が永く、夜も寒暖にそれほど影響されない初夏が最適だったのだろう。二十四時間でどれだけの矢を通せるか、とか、五・七・五と七・七の句を連続して詠めるか、とか、今なら誰もやらないようなことに昔の人は闘争心を燃やしたのだ。案外、平和な時代だった証拠だろう。

さて、ここから手前味噌になるが、僕も平成元年から四年続けて、大矢数をやった経験がある。五年には「西鶴没後300年スペシャル」とかで、NHK大阪のスタジオで十二時間の小矢数を実演した。僕のは全て発句。面白半分、真面目半分で挑戦した一回目で二千二百五十句。短冊の位置や、一つの季語で三十句づつ詠む、など工夫を重ね平成二年に三千二百四十六句、アレ、四千句
行けるんじゃないの?と自信がついて、三年目に三千九百五十句、と大台までもう少し。


そして平成四年十一月三日の某紙の記事。
「数千の小鳥を手より放ちけり。二日正午から二十四時間の大矢数俳諧にチャレンジしていた内山思考さんの打ち止めの句はこの一首だった。そして井原西鶴が残した記録をはるかに破って、今回の矢数は四千七百九十七句だった(中略)五千句にあと二百。調子よく四千句が作れたので、五千句はいけるかと思ったが、目標達成で気がゆるんでしまったかも…とちょっぴり反省」。

四千七百枚の短冊に埋もれて









当時三十九才、「矢数は知的格闘技だ」と毎日、仕事を終えてから筋力トレーニングに一時間をかけ、挑戦の二日前から食事と水分を制限し、もちろん、句を読み始めたら熱い茶で口を湿らせる以外は食事抜き、不眠不休で筆を握りっぱなし。幻覚、幻聴、幽体離脱、体に起こった変化も全て句にした。一句平均十八秒である。あれから二十年近い歳月が流れた。もう一度やれといわれても多分できない。