2012年5月20日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(72)

古川流域/三田寺町(その5)
文:山尾かづひろ 挿絵:矢野さとし












都区次(とくじ): それにしても伊皿子坂(いさらござか)とは変わった名前ですね。
江戸璃(えどり): 明国人の伊皿子(いんべいす)が住んでいたことが坂の名の由来らしいのよね。
都区次: いま伊皿子坂を下っていますが、坂道の右側を見ると、路面より玄関先の地面が高い場所がありますが、あれは何ですか?
江戸璃: むかし市電(都電)を敷くときに、電車が坂を上り易いように勾配を削った跡なのよ。さて、坂は突き当たって左へ出れば第一京浜、右は泉岳寺よ。ここで昔日の都電通りと別れて泉岳寺へ向うわよ。
都区次: 泉岳寺と言えば四十七士ですね。
江戸璃: 余りにも有名な泉岳寺について私がお喋りすることもないわね。ただ、吉良邸討ち入りのあと、赤穂浪士一行は愛宕山下の青松寺へ赴いたけれど、かかわりを恐れた寺に断られて泉岳寺を目指したとのエピソードがあるらしいのよ。いずれにしても泉岳寺は四十七士で一躍名を挙げたのよ。「それまではただの寺なり泉岳寺」の古川柳がその間の消息を伝えているわね。
都区次:それでは線香を買って赤穂四十七士の墓を拝んでゆきましょう。
江戸璃:吉良邸へ討ち入ったのは四十七人だけど、墓は四十六しかないのよ。切腹しなかった寺坂吉右衛門は、石塔はあるけど墓はないのよ。寺坂は討ち入りのあと、事件の末を各所に報告する密命を帯びて姿を消して、八十三歳の天寿を全うしたのよ。麻布の曹渓寺に身を寄せた時期もあって、本当の墓は曹渓寺にあるのよ。もう一つ忍道喜剣と書かれた石塔があるけれど、これは同志の萱野三平の供養塔ということになっているわね。萱野は刃傷の一件を赤穂へ知らせた使者で、同志に加わりながら親の許しが得られず、忠と孝との板挟みになって、討ち入り以前に自決してしまったのよね。後に早野勘平として人形浄瑠璃や仮名手本忠臣蔵に登場するのは、皆さんご存知の通り。










香煙の紛れゆくなり青嵐 長屋璃子(ながやるりこ)
青嵐遠慮会釈のなき唸り 山尾かづひろ