2012年9月2日日曜日

尾鷲歳時記(84)

震災忌に思う
内山思考

秋の雲人間急いでも飛べぬ 思考

東南海地震の際の津波到達点
(市内天満地区)



















9月1日は震災忌、大正12年の関東大震災の日である。 それから九十年後の今、震災忌というと僕の頭に浮かぶのは、昭和19年12月7日の東南海大地震、平成7年1月17日の阪神淡路大震災、そして平成23年3月11日の東日本大震災である。関東大震災は無論知らない。東南海地震も昭和28年生まれの僕には過去の出来事だ。

しかし、僕の周りにはまだ東南海の体験者が沢山いる。前の家のおばあちゃんは津波のあと、布団を大八車に積んで川へ洗いに行ったそうだ。海の水に浸かったから塩抜きをしないと使い物にならない。川の水はとても冷たかったそうである。

宝永大震災(1707年)の慰霊碑も
家の近くにある
妻の従兄は家を流され、住居を転々とした。あるおじいさんは両親を流されて大層苦労したそうで、今でも津波警報がでると、バイクに乗って近所中に一声かけたあとは一目散に高台へ走る。つられて皆も逃げる。それが最も有効、それしか手は無いと言うのが経験上の持論なのだ。僕の家は港から200メートル、海抜5メートルで近くに川あり、と津波には最悪の条件が揃っている。だが、すぐ裏が山なのでそこへ逃げることになっている。

阪神淡路大震災の前々日、神戸の岡本で「白燕」の句会があった。僕はその正月に亡くなった同人がいつも座っていた席に花束を捧げよう、と駅のホーム下の小さな花屋に寄った。客は僕一人、店主の女性は手際よく花を揃えながら、しかし店員の男性に小言を言っていた。どうも彼が買ってきた石油ストーブが気に入らないようであった。「灯油は危険です。お願いですから電気ストーブに替えて来て下さい」と言葉使いは丁寧だが強い口調であった。

句会後、誰かに花束を持って帰って貰おう、と思ったが追悼の花だから、と皆さん遠慮される、尾鷲まで提げて帰るのも大変だし棄てるにしても…、と困っていると「じゃあ、私貰って行くわ」と言って下さったのは柿本多映さんだった。 あの花屋はどうなったろう。そしてあの店主と男性は無事だったろうか、と今でも時々思い出す。