2013年4月21日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(120)

山手線・日暮里(その20)
根岸(上根岸82番地の家⑤「子規庵」)
文:山尾かづひろ 

与謝蕪村













都区次(とくじ): 子規は東京で新時代の「官許俳諧師」の看板を見て、二十歳の夏休に松山近郷の俳人大原其戒(おおはらきじゅう)を訪ね、その主宰誌「真砂の志良辺(まさごのしらべ)」に投句するようになりました。この時代の進歩派の「官許俳諧師」とは言っても中身は旧派ですよね。子規はやがて、旧派、即ち江戸時代以来の卑俗な句を月並として否定して新時代の俳句を作るわけですが、まず自らその月並俳諧の世界に入ったわけですね。という事は子規は最初から旧派を否定していなかったという事ですね。

子規始む俳句分類初燕 佐藤照美

江戸璃(えどり): 確かにそうなのよ。子規は明治22年、23歳のとき初めて喀血して、それまでのさまざまな野心を断念せざるを得なくなったのよ。体力を失った子規の興味は、文芸に集中して、とくに俳句にひかれるようになったのね。このころから、古くからの俳句を、季語やその他の用語によって分類するという「俳句分類」の仕事を始めたのよ。子規が旧派を批判し始めたのは「俳句分類」を始めてからの事なのよ。
都区次: という事は、「俳句分類」の作業内容に子規が俳句革命を成し遂げた秘密が隠されているようですね。
江戸璃:そのころ俳句に興味を持つ人が読む本といえば、当時刊行された旧派の俳書以外では、江戸時代以来の四季題別の俳句集が普通だったのね。勉強家は、芭蕉関係の代表的な作品集が収められている「俳諧七部集」を開いたのよ。作る俳句は、形にはまった季題趣味によるものが多く、古典として芭蕉があがめられたのよ。そういう風潮に飽き足りなかった子規は、俳句の歴史をたどり直して、俳句のすべてを学びたいと思い、「俳句分類」の仕事を始めたのよ。俳句の歴史をたどるといっても、そう順番通りにはいかなかったようよ。室町時代の連歌から読んできて、芭蕉の時代を経て、江戸中期のころになって、子規は蕪村の句に光るものを感じたのね。当時普及していた「俳諧発句題叢」(文政3年(1820)刊)などで蕪村を知ったのでしょうね。さらに、明治25、6年のころの伊藤松宇ら「椎の友」句会の人々との交友を通じて、子規ははっきりと蕪村に注目するようになったのよ。
都区次: 「俳句分類」を通じて子規が蕪村に注目するようになったのは事実のようですが、注目以上の執念のようなものを感じられるのはどうしてでしょうか?何かねらいがあったのでしょうか?
江戸璃: この点は「俳句分類」を語る上で最大のポイントと私も思っているのよ。今日は喋り疲れたから次回にゆっくり説明するわね。今日は子規ゆかりの浅草で昼ごはんを食べましょう。
都区次: 浅草のどの店に行くのですか?
江戸璃: 浅草だから行き当りばったりでも美味しいところがあるわよ。天丼なんか美味しそうじゃない?
二天門









鳥帰る今日雲低き二天門   長屋璃子(ながやるりこ)
昼飯の店を決めかね蝶に聞く 山尾かづひろ