2011年1月2日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(3)

皇居界隈/皇居東御苑
文:山尾かづひろ 
天守閣跡








【皇居東御苑】
都区次(とくじ):大手門より皇居東御苑に入ると緑豊かな広大な雑木林と日本庭園が広がります。かつての江戸城の本丸などがあった場所で、明治時代から戦前までは宮内庁や皇室関連の施設がありましたが、特別史跡に指定された昭和43年から一般公開されるようになりました。現在も使われているものとして「三の丸尚蔵館」「宮内庁楽部庁舎」等があります。歴史的な遺跡として「同心番所」「百人番所」「松の廊下跡」等ありますが、ひときわ目立つのが「天守閣跡」です。
江戸璃(えどり):この天守閣は三代将軍の家光がかつての大阪城・伏見城をしのぐものとして造ったのだけれど20年後の明暦3年(1657)の大火で燃えちゃって、城跡だけ残ってるのよ。
都区次:時の幕府は再建はしてませんが、何でですか?
江戸璃:物が物だから再建策も持ち上がり幕閣も「おっと合点(がってん) 承知之助(しょうちのすけ)」と合意したのだけれど、家光の弟の保科正之(会津松平家藩主)の反対で「おじゃん」になっちゃったのよ。
都区次:保科正之の反対の理由は何ですか?
江戸璃:この頃には鉄砲の戦術が実用化されてきて、山城や高い天守の城より平城を築くのが「あたりき車力(しゃりき)」になっちゃったのね。山城や高い天守は守るのに都合がよいのだけれど、物資を運びいれる手間が超大変なのよ。この点、平城は手間がかからないわけよ。
都区次:しかし攻められ易いですよね。
江戸璃:これには城壁に鉄砲用の小さな穴を開けておけば平城でも十分に対応できたのよ。
都区次:鉄砲を守りの道具として使ったわけですね。

(江戸城)
阿蘭陀も花に来にけり馬に鞍 芭蕉
(天守閣跡)
城跡の抜け穴談義冬の雷 山尾かづひろ