2011年4月17日日曜日

季語の背景(7・喜見城)-超弩級季語探究

小林 夏冬


喜見城

喜見城の読みは「きけんじょう」。喜見、喜見宮、善見城、喜見城宮ともいい、本来の意味は帝釈天の住い給うところをいう。須弥山の山頂、忉利天の中央にあって、その四つの門にはそれぞれ大きな園があり、諸天人が遊楽するところ、転じて蜃気楼をいうとは広辞苑で調べた結果だが、現代俳句協会の図書室へ毎月送られてくる俳誌に「喜見城」という本があって、「キミシロってなんのことだ」という素朴な疑問から広辞苑で調べ、一つ利口になって内心では赤面した次第で、これはもともと仏教用語である。

『塵袋』には「聖教ノ中ニハ忉利天ノ喜見城ノ地ニ、宝蔵天女ノハダヘ等ノヤハラカナルモノヲバ、トラメント如クトイフハ何物ゾ。妬羅綿ト云フハ、ワタノ名ナリ、妬羅樹ト云フ木ノ花ヲ取ツテツクル。此ノワタキハメテヤハラカニシテ、ナラブベキモノナシ。コノユエニタトヘトス。又ハ兜羅トモカク、氷綿トモ云フ、霜綿トモ云フ、イサギヨキコト氷霜ノ如クナルユヘナリ」とあって、忉利天に住む天女、宝蔵の肌のように柔らかな綿を妬羅綿、兜羅、氷綿、霜綿というとしているから、これは喜見城そのものの説明ではない。そして以下に「木綿トカキテユフトヨム、歌ニハシデノ心ニゾヨム、コレ妬羅綿ト同ジ物カ、如何」「木綿ニアマタノ説アリ、トラメンニモカヨヒタルヤウニ云ヘルコトアレドモ、別ノ物ナリ」ともいっている。

角川大歳時記は蜃気楼を喜見城として、「ないものがあるように見える光学現象。光の異常屈折が原因である。海上に見えるのは、水中に住む蜃という動物の吐く息によるものだというので、蜃気楼の呼び名が生まれた。陸上のものは人を化かす狐の仕業だといわれた。日本では富山湾やオホーツク沿岸のものが有名だが、これは春から初夏にかけて雪解けの冷たい水が海に注ぎ、それに接する海面付近の空気も低温になったところに、暖かい空気が吹き込むとき、空気の濃淡のむらから屈折が起きるためだとされている。天気がよく、風の弱い日に起こりやすい」と平塚和夫という人が解説している。富山湾のものは毎年、テレビで放映されるからそれを見た人は多いだろう。

また、その時期を狙ってわざわざ遠くから通う人も大勢いるようで、確実に見られるという保証はないから、無駄足を踏むことの方が多いという。無駄足を踏むことのほうが多いのは学術的な研究を始め、世間一般の通例で、写真家なども一瞬のシャッターチャンスのために何日も、何週間もかけて、それでも徒労に終わるときのほうが多いというから、なにも蜃気楼に限ったことではないが、無駄を覚悟の上で何かをするというのはご苦労なことで、それだけにその苦労が報われたときの喜びはまた一入だろう。

喜見城そのものは『三界義』で「三十三天の者、此の天の四面に各おの八城あり、合わせて三十二天なり。加うるに帝釈天所住の喜見城あり、三十三天となるなり」といっているから、喜見城を中心とした前後左右、四面の楽園に各々八つの城があって、その合計が三十二天、中心の喜見城と合わせて三十三天ということになり、砕けたいい方をすれば諸天の団地のまん中に喜見城があることになる。『梁塵秘抄』「分別功徳品」は法文歌二百二十首を収めているが、喜見城については第百三十二番に出てくる。「釈迦の説法説く場に、幡蓋風に翻し、多摩羅跋香充ち満ちて、きむけじやうより華ぞ降る」というのがそれで、つまり法悦の場を荘厳したものが喜見城ということになる。

ここまでは仏教用語としての喜見城だが、『西鶴諸国ばなし・夢路の風車』に出てくる「唐門、階、五色の玉をまきすて、喜見城のとは今こそ見ゆれ、是なるべし」というのは人間がまだ見ぬ理想郷を指す表現で、本来の意味が転じてこの上なく美しい、楽しい場所という意味になる。さらに幸田露伴の「是は是は」という小説は明治時代、ロバートという不良外人が、偽のダイヤを質屋に持ち込み、詐欺を働こうとして失敗する話で、その不良外人に狙われた質屋の主人が、詐欺の舞台として利用された鹿鳴館、のちの華族会館へ呼び出されたとき、まさか騙すために呼び出されたとは知らないで、「人間の極楽、喜見城かと思ふて居た鹿鳴館より、馬車でお迎へとは質屋開闢以来まだあるまい、同業へ対しても名誉な事」と一人言をいい、喜び勇んで着物を着替え、新しい足袋を穿き、金時計の鎖を帯へ巻いて小僧を一人連れ、馬車でいそいそと鹿鳴館へ向かう場面がある。この小説での喜見城は仏教的な意味から離れて単に楽しいところ、まだ見ぬ憧れの場所、というほどの意味合いになっている。

今の日本は不良外人の天国で、これはなにもいまに始まったことではない。戦前から日本人は外人に甘いのが特徴で、一般論としていえばとくに白人には卑屈である。情ないことこの上ないが、そのくせ同じアジア人種には尊大な態度で接したがる。だから東南アジアでの日本人の評価は、見かけは黄色人種でも中味は白人と同じというところからバナナと呼ばれ、軽蔑される。しかし、それも日本人の一般的な傾向からいえば、そういわれても仕方がない一面があることは確かで、バナナという蔑称に値する日本人がいることは否定できない。

その反作用かどうか知らないがソ連べったり、中国べったり、北朝鮮べったりの日本人もたくさんいて、なにか事が起きるとこれらの国にいちいち内通したり、ご注進するやつがいる。不思議なことにフィリッピンべったり、ビルマべったり、インドべったりというものはなく、これらの国にご注進に及んだという話は聞いたことがない。第二次大戦では東南アジア諸国にも、物心両面にわたる多大な損害をかけたことに変わりはない筈である。北方領土問題然り、日本人拉致問題然り、靖国神社参拝問題然り、日本人のくせに相手国の利益ばかり擁護して、当事者の悲しみや怒りを平然と無視する政治屋、役人どもが後を絶たない。

どうも話が生臭くなった。ここまでいってしまったら、もうそんなことをいっても手遅れかも知れないが、口は災の元になるからこれ以上は慎むことにする。『太平記』には「太梵高台の月、喜見城宮の花も見るに足らず、翫ぶべからずと」とあり、歌舞伎には「ナア、世をも国をも思わずに、心に発する色情が、侭にならば喜見城」という科白があるそうだ。このへんは本来の意味から転じたものが、さらに敷衍されてだんだん怪しげになっている。さらに『浮世草子・好色二代男』になると、「目前の喜見城とはよし原、嶋原、新町、此の三ケの津にます」とあり、こうなるともう、まったくけしからぬ話の極みで、怪しげな場所の意味となり、不謹慎もいいところである。花街、遊里を指して喜見城というのは罰当りも甚だしいというものだが、私もそういう罰当りの喜見城は嫌いではないし、正直にいえば至って好きなほうだから困る。

寛政四年(一七九二)春に刊行された日本橋千鍾房、須原屋茂兵衛版『訓蒙天地弁』は高井蘭山の著になるものだが、これは同じく日本橋嵩山房、小林新兵衛版や、浅草青黎閣、須原屋伊八版と版を重ねている。いまでいえばベストセラーというところで、この『訓蒙天地弁』は天の巻、地の巻、人の巻に分けて詳しく述べている。それには「問て云、海中より水気を吹て忽ち城郭楼門の象を現し、またハ館舎市廓の体をなさしむるを蜃気楼と云、或は虬の吹気とし、又は蛤の大なるもの吹処也とす。何によりてかくの如の図を吹の理なりや、嘗て云、蜃楼の説、屡々奇異とは知れども、未だ形象をまのあたりにせざれば論ずべきに非ずといへり、和漢の書に出る説をここに記す。先づ虬ハ龍の属にして角なきもの也、蜃も又虬の類とも又、蛤の大なるを蜃と云と知るべし。蜃楼を以てかの生類の吐く息とするハ、虹を以て蝦蟇の吐ものといふごとし。先ハ遠地の楼閣上空に映じ、空中の温気、影を倒に水面に射映して人、望で楼閣城門の高く聳ゆる気をいふ。俄境にして消滅せること虹の如しとあらバ、水気と同気となる間に現るるものにや」とあり、前段で私の好む怪しげな話を和漢の各書から紹介し、後段では科学的な説明をしている。

後段はとにかくとして、最初のところで虹は蟇の吐く息、蜃気楼は大蛤の吐く息であるという、あまり真面目な話ではない。いずれにしてもその説は高井蘭山独自のものではなく、和漢の書に頻繁に登場してくるが、書くほうも遊びごころとして承知の上で書いている。だからここでも「蜃気楼」というタイトルの挿絵があり、海の底で大蛤が息を吐き、吹き上げる先の空中に城が描かれ、「海傍蜃気象楼台広野気成宮闕」と『史記』や『漢書』の一節が記されている。【海辺の蜃気は楼台を象り、広野の気は宮闕を成す】つまり、海の蜃気楼は楼閣のようであり、野原に現れるものは宮殿のようだというわけだ。

『訓蒙天地弁』に引用されたこの一節は『史記』「天官書第五」、観天望気の法で、これは天文学書の範疇に入る。天文学書といっても占星術による兵法書に近いものだが、一口に兵法書といっても宮本武蔵の『五輪書』と、孫子の兵法書ではその性質がまるで違うのはいうまでもない。「天官書」は天を観じ、気を望むことによって国情、民情を占い、用兵を占うものだから、孫子の兵法書に近いほうで、その雲気の項の一節を『訓蒙天地弁』が引用し、挿絵の賛にしたものである。

これが沈括の『夢渓筆談』になると、「登州海中時有雲気如宮室台観城堞人物車馬冠蓋歴々可見」【登州の海上には時として、雲気のように宮殿や見張り台が現れ、垣根や車や馬、人の被りものまではっきり見えることがある】として「謂之海市或曰蛟蜃之気所為疑不然也」【これを海市というが、蛟や蛤の吹く気が形となったものだという説は疑わしい】といい、その実見談として「欧陽文忠曽出使河朔過高唐県駅舎中夜有鬼神自空中過車馬人畜之声一々可弁」【欧陽文忠がかつて河朔に使いした途次、高唐県の駅舎にいると、夜になって鬼神とその一党が空中を通過してゆくのが見えた。そのときは車が過ぎる音、人の話し声や、馬の嘶きがいちいち聞こえた】という。そして「其説甚詳此不具記本処父老云」【そのいうところははなはだ詳しいものだったが、ここには記さない。しかし、土地の古老がいうには】として、「二十年前嘗昼過県亦歴々見人物土人亦謂之海市与登州可見大略相類也」【二十年くらい前の昼間、ここを通ったとき、やはり海市が現れ、人などもはっきりと見えた。土地の人は海市だというが、登州で見られるものとだいたい同じようなものだった】とある。

だが、登州のものは海市と思われるが、高唐県の駅舎で見たという、鬼神が空中を過ぎたほうは、その形だけではなく音も聞こえたといっているのだから、こちらは海市とはいえないだろう。海市であれば音はしない。それなのに「車馬人畜之声」が聞こえたとすれば、それは怪異談の範疇に入るものだろうと思うのだが、「土地の人はこれを海市といった」ということは、そのままでは頷けないところがある。また、県の駅舎の上空を鬼神とその一党が過ぎたという記述を、海上のこととして読むには無理があるし、なによりも音が聞こえたということは、それは海市ではないという証明にしかならないだろう。

余談ながらこの『夢渓筆談』を書いた沈括は、段成式の『酉陽雑俎』はでたらめが多いといい、そのでたらめの実例を何箇所も挙げている。確かにその指摘は正しいところもあるから『酉陽雑俎』がそういわれても仕方がない面はある。しかし、『夢渓筆談』と『酉陽雑俎』では書いてある内容や性質が違うし、書き方そのものも違っている。『酉陽雑俎』は怪異談を主としたものだから、科学的な見地からすればでたらめな話ばかりで成り立っている。それを改めて仰々しく取り上げ、「でたらめの説」というのは、いうほうがおかしいということになる。当時、第一級の実務家で科学者でもあった沈括のいうことだから、彼のいいたいことはよく分かるのだが、科学的ではあっても理詰めの話はあまり面白くない。だいたい、段成式をでたらめと非難する沈括が書いたものでも結構、怪しげな与太話があるから、いまふうに政界のいい回しを借用すれば「いかがなものか」ということになる。

与太話はそれこそいい加減にして、だいたい以上で喜見城と蜃気楼の概念と、その実例は理解できたわけだが、残る問題は喜見城がなぜ蜃気楼と同意になったかということだ。帝釈天の居城である喜見城が現実にあるわけはないから、諸仏諸天の住い給うところを美化して考えたとき、蜃気楼と関連づけたいのは分かるとしても、単なる感じだけでその二つがイコールになる筈がない。喜見城と同じようなものとして、観世音菩薩の住い給うところとして、インドの南海岸に補陀落があり、すぐれた詩人が死去してのち、その魂が住むところとされている白玉楼があるが、これらは季語になっていない。まさか喜見城は天上のもので、補陀落はインドの南海岸にあるといわれ、ある意味では地上のものだからという、そんな単純な分け方はしないだろう。それをいうならば白玉楼も天上のものである。あるいは現実に存在しないもの、空中楼閣というところから蜃気楼と繋がったものかも知れないが、それならば白玉楼の住人は御仏ではないから別として、補陀落も条件は喜見城と同じだから、補陀落は除いて、喜見城だけが蜃気楼の別称だというのは片手落ちである。いや、片手落ちは差別用語でいけないことばだそうだから、どうしてだかそのわけは知らないが、不公平だといっておく。

忠臣蔵などで「幕府のなさりようは片落」などといわれると、つい笑いを怺えるのに苦労するが、江戸時代に片落ということばが現実にあったのは事実だから、それだけを以ってケケケなどと笑ったら、笑ったほうに問題がある。それにも拘わらずつい笑ってしまうのは、「片手落ち」を差別語であるとする考え方がおかしいと思うからで、このへんは昨今の過剰な送り仮名の氾濫と同一である。いずれにしても蜃気楼は海中の大蛤が吐く気によるものだというが、それだけではなぜ蜃気楼の別名を喜見城というのか、その答えにはなっていない。スペースの制限があるから仕方ないにしても、どの歳時記を見ても喜見城は蜃気楼の項にあり、蛤の吐く気だから蜃の気が楼閣を成す、すなわち蜃気楼、という説明はあるが、その蜃気楼をなぜ喜見城というかという説明はどこにもない。喜見城は空中楼閣だから、空中楼閣イコール蜃気楼となり、その蜃気楼が出やすい時期は春だから、それで春の季語となったのだろうと思う。しかし、そのあたりがもう一つ釈然とせず、隔靴掻痒の感がある。

その蜃気楼には別名がたくさんある。冒頭に挙げたもののほかに海市、山市、蜃楼、蜃市、貝楼、空中楼閣、かいやぐら、きつねだな、蓬莱島、なごのわたり、狐の森、こをながふ、大蛤など。なんとなく納得してしまう異名だが、歳時記のうえでは海市、山市はあっても砂市はない。これもはなはだ片手…、不公平なことで、砂漠に現れるものは蜃気楼で済ませている。広大な砂漠を抱える中国と違って、日本に砂漠はないことが原因かも知れないが、それだけではちょっと首を捻らざるを得ない。まともな用例としては『椿説弓張月』に、「赤城霞起りて蜃気楼を抬出し」とあり、赤い城のような蜃気楼が立つというから、これは砂市を指しているのだろう。「赤城霞起りて」とは赤い砂が舞い上がって霞がかかったようになり、それが城郭のように見えるということだが、砂漠の中には赤い砂のところもあるというから、色の違いはあるとしても黄砂のようなものだろう。

蒲松齢著『聊斎志異』は原典ではなく、上海古籍出版社で復刻したものしか見ていないが、その『聊斎志異』にも蜃気楼の話が海市、鬼市、山市、砂市として出てくる。それぞれの名が違うが、それは蜃気楼が出た場所が違うというだけの話で、実体は同じものである。そこに出てくる「羅刹海市」は、難破して羅刹国に漂着した中国の人、馬驥という若者の話で、この馬驥は日本の浦島伝説の原典である。そこでは「我国所重文章不在而在形貌」【わが国でもっとも重要視されるのは才能ではなく容貌です】とある。のっけから度肝を抜くような国で、どういうのがよい男なのか、そのよい男の基準は後から出てくるが、才能は問題ではなく、男前次第で宰相さまにも貴人にもなれるという、その羅刹国の話である。

「其美之極者為上卿次任民社下焉者亦邀貴人寵故得鼎烹以養妻子」【いちばんの美男が最高級の貴人となり、次のものが地方のお偉いさんになり、それ以下のものは、偉いさんに可愛がられるように頑張って食い物を貰い、それで妻子を養います】という。さらに「若我輩初生時父母皆以為不祥往往置棄之」【わたしらが生まれたとき、父母はこの子は幸が薄いと思ったら、たいがい棄ててしまいます】と、生まれた子の容貌が醜いと親からも見放され、捨て子にされてしまう。おいおい、親とはそんなもんじゃなかろうといいたくなるが、これもお話を進める都合によるものだから、そんなところにまでいちいち目に角を立て、ぶつくさ文句をいったら蒲松齢も迷惑するだろう。ではこの国の美男とはどんな男かということになるのだが、この場合の一番美しいものというのは、あくまでも羅刹国の基準による一番美しい者で、それが出世する第一の要件だから、たとえどんなに頭がよくても、そんなものは鼻くそほどの役にも立たない。

他国の人間から見たら醜怪極まりないものが最高の美男で、そういうものが宰相さまとなり、貴人となり、人間として普通の顔立ちのものはその下に仕え、美男などは怪物のように恐れられるということだから、この国の宰相さまは「雙耳皆背生鼻三孔睫毛覆目如簾」【二つの耳は後ろ向きに生え、鼻の穴は三つあり、睫毛は簾のように目を覆っている】始末で、そういう男がこの国では最高の美男だから、宰相さまにもなれるし、位、人臣をきわめるわけだ。だから美男である馬驥は羅刹国ではあまりの醜さに、誰も恐れて近づかない。顔に煤を塗りたくって、やっと一人前扱いされる始末で、それが羅刹国の謂れなのだが、この世にそんな国があれば大いに希望が持てる。そこなら私だって宰相さまは無理としても、貴人くらいにはなれるだろう。

その馬驥がある日、村人の案内で、大羅刹国の海上に立つ市を見にゆく様子が書かれている。そこに出てくる市とは「四海鮫人集貨珠玉四方十二国均来貿易中多神人遊戯」【四方の海に住む鮫人が真珠や宝石を持ってくるので、周辺十二カ国の商人が交易に集ってくる。そのなかには神さまも大勢遊んでいる】という。注として『述異記』を引用し、南海には鮫人が住んでおり、「其眼能泣泣則出珠」【その目からよく涙を流すが、その涙がみな真珠となる】ので、鮫人はその珠を持ってくるのだという。馬驥はその市であちこち見て回っているうちに、たまたま通りかかった龍宮城の若君に招かれ、盛大な歓待を受ける。そしてその席で龍王が改まっていうには、「寡人所憐女未有良匹願累先生先生倘有意乎」【私には娘がおるが、まだ婿が決まっておらん。先生に婿になってもらいたいと思うのだが、先生のお気持ちはどうかな】と聞かれ、まごまごしていると「実仙人也」【天女のような】娘を紹介され、めでたく結婚という運びになる。龍王の娘婿となって龍女との間に双子が生まれるのだが、これもお話だからどこまでも都合よく書いてある。

浦島伝説の発祥で、こちらは故郷へ帰って函を開けても、煙などという不粋なものは出てこない。龍女と別れたのちも故郷へ帰ってその双子と暮らし、龍女もときには訪ねてきて山のような金銀財宝、珊瑚樹、真珠などを贈ったりして、話の結末は日本の浦島太郎のようなうら淋しいものではない。結局、海市とは海上の市で、そこには商人や客ばかりではなく見物人や、遊びにきた神さまなどでごった返すというものだが、しかし、海上の市などは現実にはあり得ない。空中と海上という違いがあるにしても、蜃気楼のようなものだから別名が海市となったのだというが、これだけの説明を以って喜見城イコール蜃気楼、ということにはならないだろう。

『聊斎志異』には海市、砂市とは別に、山市も出てくることは既に述べた。「奐山山市邑八景之一也数年恆不一見」【奐山の山市はこの村の八景の一つだが、これは数年に一度見られるかどうかというもので、常に見られるものではない】とあるから、こちらも蜃気楼の一種として現実の話である。「孫公子禹年与同人飲楼上忽見山頭有孤塔聳起」【孫禹年という公子が友人と飲んでいると、遠くの山の上に塔が聳えているのが見えた】しかし、そのあたりに塔などなかったのを禹年は知っていたので、これはおかしいと思っていると、「無何見宮殿数十所碧瓦飛甍始悟為山市」【やがて数十の宮殿が見え、青い瓦の甍がそそり立っていたので、初めて山市だということが分かった】とある。そこには楼閣や堂塔が無数に立っていたが「而楼上人往来屑屑或凭或立不一状」【その楼上に人の往来する姿が屑のように見え、何かに凭れかかっている人や、立っている人などさまざまだった】という。そして「又聞有早行者見山上煙市肆与世無別故又名鬼市」【また、聞いた話によると山の上に市街が現れ、煙の立っているのを見た人がいるそうだ。それは現実の街と少しも変わるところがなかったという。これを鬼市ともいう】とある。

これなどはブロッケン現象とは違うかも知れないが、それに近いような現象、理屈なのではないかと思われる。私はそういう方面はまったく暗いからなんともいえないが、いずれにしてもここまで述べてきたように蜃気楼としては海市、鬼市、山市、砂市などがあり、これらを蜃気楼というのは納得できる。しかし、仏教でいう喜見城イコール蜃気楼という説明にはならず、どちらにしても素朴な疑問を晴らしてくれるものではない。「諸天人が遊楽するところ。転じて蜃気楼という」、という説明だけでは転じ方がちょっと唐突で、納得でき兼ねる面があるし、第一、この説明だと喜見城は現実には存在しないという例証にしかならないだろう。結局、そこにまだ矛盾が残るとしても、喜見城は空中楼閣という見立てから蜃気楼とイコールになり、それがいちばん現れやすい時期と結びついて、春の季語となったと考えるほかはなさそうである。