2011年6月12日日曜日

尾鷲歳時記(21)

紀勢線の話
内山思考 

 マンゴーの終着にして掌   思考 

跨線橋より尾鷲駅上り方面を望む












日本に秘境はない、と誰かが言っていた。 まあ、島国のことであるから、大抵どこへ行っても日本語は通じる。方言はあっても言語そのものや民俗の形態が根本的に違う、などということはまずない。 だが「陸の孤島」といわれる地方は全国にもかなりあって、僕の父や母が生まれた奈良県吉野郡十津川村などは最近までそう呼ばれていた。 「きょーとい(ひどい)」「うたてー(きたない)」など古語の雰囲気を持つ方言も多く、僕は十津川弁は話せないが内容はよくわかる。

尾鷲も、昭和三十四年に国鉄(JR)紀勢線が全通するまで「陸の孤島」だった。 紀伊半島の海岸線をたどる 紀勢線はまさに夢の鉄路であったが、東紀州は急峻な山が入り組んだ地形で平坦地が少なく、戦争の影響もあり、地元民の期待とは裏腹に、なかなか工事ははかどらなかった。 ことに、木本(熊野)と尾鷲の間が最大の難関で、開通するまで人々は、海路を利用するか、国鉄バスで高低差八百メートルの羊腸の山路を車酔いに苦しみながら、三時間近く揺られねばならなかった。
吉田初三郎描く伊勢大廟

「大正の広重」と評された鳥瞰絵師・吉田初三郎が挿し絵を描いた「鉄道旅行案内」・大正十三年発行、が手元にあるが、それによると「相可口(現・多気)から木ノ本まで三十一里自動車十圓八十銭、午前七時半と午後零時半に発し八時間を要す、荷坂峠を越えて紀州に入るあたり、長島を真下に見た眺観美は何とも云へぬ、其長島と尾鷲とが途中の繁華地である、長島まで五圓四時間半、尾鷲まで七圓五時間半…」とある。

庶民が気軽に旅行など楽しめない時代の話だ。 昭和三十四年七月十五日、尾鷲駅で十河国鉄総裁のテープカットにより悲願の紀勢線全通は成ったが、当時七才の妻は全く記憶に無いと言う。