2011年6月12日日曜日

第35回現代俳句講座(講演:高野ムツオ)前編


俳句-瞬間を切り取る詩
高野ムツオ
(日時:平成23年6月11日、場所:東京都中小企業会館/文責:大畑 等)

高野ムツオ氏

常々、俳句は時間を表現出来ない、一瞬を切り取り、そこに作者の様々な思いや感情を表現していく詩形と思っていました。そういうなかで「東日本大震災」に衝撃的に向き合ったわけですが、この震災と係わりながら、俳句の表現について話したいと思います。

震災の前日は東京の秋葉原で、「どこでも五七五」という番組の収録を終えました。震災の当日3月11日は仙台の駅ビルで30年ぶりに友人たちと会っていました。そこで地震なのですが、とにかく音が凄かったです。私たちは駅ビルの地下から駅の広場に出ました。そこでは映画のシーンを見るようで、数百人から千人の群衆がたむろしていました。余震も凄く、不安と恐怖のなかで、恐ろしげな声を聞きました。電車、バスがありませんので、住んでいる多賀城までの13kmぐらいを歩いて帰ることにしました。携帯電話はつながらず、5時半ころ気楽な気持ちで国道を歩き始めました。電気は消えていますが、車のライトで道は明るい、車を追い越して歩きました。

家まで2~3kmのところにさしかかったとき、「何かがおかしい」と思いました。車が横転しているのです。こういうときに交通事故とはなんてことだ、と思っていましたが、次々と車が横転したり仰向けになったりしている、大きなトラックまでそうなっているのを見て、「これは津波だ!」と思ったのです。津波のことはたまたまつながった携帯電話で知っていました。仙台港10mという情報が入っていたのです。国道まで津波が来るとは思っていなかったのですが、実は来ていたのです。コンビナートのもの凄い爆発音も聞きました。歩くことの出来る道を探りながら家に着いたのは10時頃、4時間半から五時間ぐらいかかったことになります。住居はマンションの五階で、くたくたになって寝ました。

車は無事だったので、カーナビで津波の映像は見ていました。しかし津波の本当の恐ろしい姿を見るのは翌日のことでした。-写真がスクリーンに映し出される(会場より驚きの声)-

俳句を作ろうと思い始めたのは駅の広場に逃げたときからですが、歩いて家に帰りながら、いろいろ考えました。

一つは、阪神淡路大震災の俳句が気になりました。当時朝日新聞から俳人たちに1句出すように言われていました。しかし自分の作品が空々しく感じ出さなかったのです。数日後、師の佐藤鬼房のところに行って「先生は出しましたか?」と聞くと「俺は出したよ」との返事。後で、出来た本を見て、やっぱり表現することは大事だと、後悔の気持ちを持ちました。阪神地区の多くの俳人たちが良い作品を出していました。やはり句にしなければいけないのだと思いました。そのことがずうっと頭のなかにあったので、まず俳句を作ろうと考えたのだと思います。

二つ目。私が生きているなかで俳句っていったい何だろう、と思いました。これも常々考えていたのですが、この震災に遭ったときにも思いました。自分のこころを支えるためにあったのではなかろうか、と。他人に何かを伝えるためではなく、自分が表現することで、そこから力を得ることが出来る、と思ったのです。特にそう思ったのは4年前に咽頭癌の手術をしまして、もしかすると声が出なくなるかも知れないと医者から言われていました。不安のなかで作った俳句が私自身を随分元気付けてくれました。だからこんどもやっぱり俳句を作る、そのように思いました。

三つ目。やっぱり俳句は瞬間を切り取る、ということです。生きなければいけない、家族の心配もする、そういうことが一回収まってから遡って俳句を作ろうとしても、その遭ったときと数日後の作者の間に少しずつ乖離が始まります。前に戻って俳句を作ることが出来ないのです。瞬間をそのときに表現しなければいけないと思ったのです。

ここで阪神淡路大震災のときに私が感動した句を掲げてみます。

倒・裂・破・崩・礫の街寒雀  友岡子郷

大変有名な俳句です。映像メディアが現在のようになってから可能となった表現で、カメラのフラッシュでパッパッと映像を見せているような感じです。寒雀はいつでも必死、寒雀に、ひたすら生きている人間を重ねた俳句だと思います。

寒暁や神の一撃もて明くる  和田悟朗

和田悟朗さんも阪神淡路大震災の被災者です。「神の一撃」がいろんな解釈を生みますが、自然科学者である和田悟朗さんであるから、大自然の摂理そのものが一撃となって現れた、その大自然の大きな力のもとに人間は生きていることをもう一回確認するのだ、そういうふうに私はとらえ、こころを打った俳句です。

枯れ草や大孤独居士ここに居る  永田耕衣

 当時95歳になった永田耕衣さんの、震災翌年の句です。トイレに入っていて震災に遭われ、銅製の銅鑼みたいなのをガラガラ鳴らして救助されました。目の前に広がる枯草を見ながらの句です。人間の孤独は、永田さんが常に言っていることですが、その孤独に居士をつけたところが永田耕衣さんらしいと思います。居士とは死んだ人間のことで、あたり一面の枯草のなかで、俺は黄泉の国からよみがえってここに居るんだと、諧謔味をもって表現しました。直接、震災にあったなどとは言っていないのですが、そういう経験があったからこそ言えたのだと思います。

それから二つ目の「こころを支える俳句」、たくさんあるのですが、皆さんもご存じの有名な句をいくつか掲げます。

水脈の果て炎天の墓碑置きて去る  金子兜太

 トラック島で多くの、亡くなった戦友をそのままにして帰るとき、墓標が立っているところを眺めている、そういう句です。悲しみと「置き去る」に表現されたもの、つまりその悲しみを越えて生きていこう、死を無駄にしないぞ、という思いが書かれています。この金子兜太の俳句は他の人に知って貰うためのものではなくて、今ある自分のこころの再確認、俳句というのは自分が元々思っていたことをそのまま書く、なぞるのではないのですね。漠然とした思いが言葉で表現することによってはじめて、新しいものとして立ち上がってくる、そしてそのことが支えになるのだと、そのように私は思います。

暗闇の目玉濡らさず泳ぐなり  鈴木六林男

 この暗闇はどこにあるか、そういうことではなく心象的なものだと思います。実際に泳いだ戦争体験に基づいているのかもしれません。その暗闇のなかで目玉だけがギラギラ光っている。現実の暗闇であると同時に時間のなかの暗闇、戦後と言ってもさらに暗闇が続いていくだろうという醒めた認識があります。その暗闇を泳ぎ切っていこうとする意志の表現だと思います。作者はそれを作り上げることによって、それを確認しているのだと思います。

縄とびの寒暮いたみし馬車通る  佐藤鬼房

 洟をたらしながら子供たちが縄とびをしている。どこにでもあるような寒々とした景色です。側を馬車が通る、塩竃ですから魚を載せた汚い、壊れそうな馬車がゴトゴト通る。打ちひしがれそうな情景です。でもどこかに生きる思い、活気があります。縄とびの縄の音、馬車の音がある。そこに作者は自分の生きる気持ちを確かめている。確かめることによって明日へのこころの支えとしている。

また、ある日ある時の瞬間がこれらの俳句に捉えられていると思うのです。(後編へ続く