2011年8月7日日曜日

尾鷲歳時記 (29)

四千万歩のお客様
内山思考

手花火の光の中にみんな居る 思考 

もてなしの心得を記したお触れ









井上ひさしさんの著書に「四千万歩の男」という長編がある。 わが国で最初の実測地図を作った江戸時代の測量学者・伊能忠敬(いのうただたか)の生涯を書いたもので、兎に角長い。全五巻の一巻をまず買ったが、文庫本でありながら厚み四センチ?ほどもあり、読み始めたものの四千万歩どころか四千歩も行かないうちに頓挫してしまった。

しかし、伊能さんは凄い人だ。歩き始めたのが寛政三年(1800)五十六才の時で、それから17年かかって何と約三万五千キロを踏破したのだ。これは、月からも見えると言われる万里の長城を七往復したことになる。 どれだけ丈夫な人だったのだろう。 三尺(二尺三寸説も)の歩幅を保って歩き続けるため、そこに嫌なものがあってもエイッと踏んづけたかも知れない。
伊能一行が多分通った
旧街道

その伊能さんたち一行14名が尾鷲にやって来たのが文化二年(1805)のこと。二月に江戸を立ち桑名、伊勢、志摩を経由して六月二十三日に尾鷲に入り、浜野屋善助さんというお宅へ宿をとったそうだ。 二百年前、熊野古道の街道筋である僕の家の前を、あの伊能忠敬さんが通ったと思うとちょっと鼻が高い。 市の郷土室にある古文書に、その時のことが書いてある。

なにしろ、幕府の偉いお役人であるから、事前にその筋から「お触れ」があったようで、まず、ご一行が到着すると、菓子と茶をだすべし、次に食事は一汁一菜にせよ、と厳格だが、その後に、一菜といっても大きい皿に沢山の料理を乗せてもよい、と書いてあるのが面白い。玄米の嫌いな伊能さんに上等の白米を炊いて差し上げたとも言われている。

別の土地では、おかずが気に入らず持って来た鰹節を食べたとか、茶碗に文句を言った、焼いた魚に手をつけなかったなどのエピソードも伝わるが、体調に気を配るあまり、食事に神経質になっていたと考えられる。