内山思考
人情の時計を秋に合わすなり 思考
記者たちは取材で留守、 右端が長野さん |
ブログに載せたいので写真を一枚、とお願いしたら、「 いいですよ、全員いませんが」と紀勢新聞社代表取締役・長野次宏さんがこころよく応じて下さった。 昭和22年、紀勢新報として創刊された同紙は、昭和24年紀勢新聞と名を変え、尾鷲を中心とした地域の情報を記事として現在に至っている。一枚二面の地方紙だが、関東から沖縄まで購読者は多い。
初代の林襄さん、二代目の林秀真さんの後を受けて平成21年にトップになった長野さんは、穏やかな外見に似合わず、一本、筋の通った人物でジャーナリストとしての筆も鋭い。 数名の記者を含むスタッフの方々も好人物ばかりで、例えばベテランの浦峰男さんは、僕と同じ奈良県十津川村出身で誕生日も同じ2月11日。早寝早起きで実践する菜園技術は余技の域をこえていると評判だ。
僕が紀勢新聞にエッセイ「内山思考の四季即是句(しきそくぜくう)」を掲載しはじめたのが昭和63年8月のこと。今、読み返してみるととても照れくさい。思えば30代だったのだ。「大波をかわして沖へ泳ぎ出す」とか「生者にも死者にも会いて墓参」などの句が見える。四季即是句はこの春180回になった。
最初に新聞を配達する干物屋さん、 気さくに声をかけてくれる |
当時「内山思考とはどんな年寄りかと思ったらお前さんか、頑張りなさいよ」 と林襄さんに声を掛けて頂いたのも懐かしい思い出である。 専用の原稿用紙が無くなったので、新聞社に取りに行った時、どれぐらいいりますか、と問われて口ごもっていたら、「オイ、沢山やってくれ」と奥の方から林秀真さんの大声が飛んで来たことも忘れられない。 ビックリしたが、もっと書いてもいいんだよ、と励まされたようで嬉しさがこみ上げて来たものだ。 それから20数年、今、僕はバイトで紀勢新聞の配達をしている。夕方刷り上がってすぐ、市内の80軒ほどをバイクで回るのだ。この一時間が結構楽しいのである。