内山思考
濁流の果ての花野の人となる 思考
玄関を出たらすぐこの風景 |
彼岸花が咲き始めた。 ああ、もうそんな季節になったのだ。このところの長雨が彼らの生長をうながしたのだろう。 「かしこいねぇ、土の中にいても咲く時期がわかるんだね」 と隣りの奥さんは感に耐えぬ表情だ。 そう言えば昨年も、ひょっとしたらその前の年も、同じ会話をしたような気がする。
いろんな草花が暦や時計を持たずに示し合わせたように萌え、咲くが、彼岸花のあの独特の赤い花を最初に見つけた時に一番、自然の働きの正解さに感動するのは何故なのか。確かに 登場の仕方がドラマチックではある。 大合唱していた蝉が徐々にトーンダウンし、やがてツクツクボーシのソロがかすれ始めた頃、夏の残像を打ち消すように、突如、鮮烈に現れる。 「彼岸が近い」 と思い。そして、 「ああ、もうそんな季節に…」 「かしこいねぇ」となるわけだ。
嫌いではないが、あまり親しみの持てる花でもない。彼岸花、曼珠沙華の他に死人花、地獄花、幽霊花、剃刀花、捨子花、とまあ、よくこんな愛らしくない呼び名ばかりつけたものだ、と哀れになってしまう。有毒植物なのも災いしているのだろう。 毒があってかぶれるから、と親に繰り返し注意され僕は一度も触れたことがない、だから「曼珠沙華抱くほどとれど母恋し・汀女」の句を最初に見た時は驚いた。
汀女さんはかぶれなかったのだろうか、それとも教えてくれるお母さんがいなかったから、毒花と知らず摘みためたのだろうか。妖しさを持つ花だからこそ、この句は生きていると言える。
雨に咲く白花曼珠沙華、 妙長寺にて |