深川界隈/成等院・清澄庭園
文 : 山尾かづひろ
文 : 山尾かづひろ
清澄庭園 |
都区次(とくじ): 次は深川江戸資料館の南にある成等院へ行ってみましょう。この寺には紀伊国屋文左衛門の墓があるそうですね。
江戸璃(えどり):その通り、紀伊国屋文左衛門は通称を紀文と言って、故郷の紀伊国で産するミカンを荒天中に命を賭けて江戸に運び、帰りの船で江戸から塩鮭を上方に運んで財をなし、貞享年間(1684~88)江戸の京橋に材木問屋を開業。元禄10年(1697)頃には老中柳沢吉保や勘定頭の荻原重秀と結びついて幕府御用商人として全盛をきわめたのよね。ところがギッチョンチョン、宝永6年(1709)に犬公方の徳川綱吉が死んで側近の柳沢・荻原が引退すると商売がふるわなくなって、その後、材木商も廃業。晩年は深川八幡宮付近に閑居して享保19年(1734)66歳で没したのよ。大きな碑の左奥には小さな墓があるけど、かなり欠け落ちているのね。商売繁盛を願う人々が欠いて持って行ってしまうそうよ。生前は蓄財に執着せず、永代橋の架設とか清澄庭園の創始とか人々のために貢献したそうよ。
都区次: それでは紀伊国屋文左衛門の貢献の一つの清澄庭園へ行ってみましょう。
江戸璃: この場所は紀伊国屋文左衛門の屋敷跡と伝えられているけれど庭園として形をなしたのは享保年間(1716~1736)の下総関宿藩の下屋敷の時代とされていて、現在のような回遊式築山林泉庭園になったのは明治11年に三菱財閥の創始者の岩崎弥太郎が社員の慰安と接待用に買い取り整備してからなのよ。庭園の名石は岩崎家が自社の汽船を使って日本各地の石の産地から集めたものだそうよ。岩崎家が関東大震災後に庭園を東京市に寄付してから清澄庭園として公開されているそうよ。
清澄庭園の涼亭 |
清澄の奇岩名石片しぐれ 長屋璃子(ながやるりこ)
石蕗の黄や黒の奇岩に映り初む 山尾かづひろ