2011年10月2日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(39)

深川界隈/芭蕉稲荷
文:山尾かづひろ 


北斎・万年橋下













都区次(とくじ): 深川と言えば芭蕉庵ですね。それでは清澄庭園から芭蕉庵跡の芭蕉稲荷へ行ってみましょう。道順を教えてください。
江戸璃(えどり):まず、小名木川に架かる万年橋を渡って行きます。この小名木川は下総の行徳の塩田の塩を江戸に運ぶための水路だったのよね。豊臣秀吉により関八州に転封された徳川家康はまず塩田を必死に探しまくったのよ。戦国時代、塩は重要な軍糧でね。行徳の塩田を探り当てると、小名木川などの水路をすぐに造らせたのね。そして最後には関ヶ原で豊臣方に勝っちゃったのよ。この万年橋は小名木川の最も隅田川に近い橋で、中川口の番所橋(東京都江東区大島9丁目)に舟番所が移る前はここに舟番所があって元番所橋とも呼ばれたのよ。さて、 延宝8年(1680)の冬、芭蕉は日本橋から深川へ移居したのよね。
都区次: 芭蕉は日本橋の生活を捨て、隅田川のむこうの深川村に遁世したと言われているのですが、直前の日本橋の暮しはどうだったのですか?
江戸璃: ともかく芭蕉は延宝5年(1677)34歳のとき、宗匠として独立、恒例による万句興行を催して江戸俳壇にお披露目を済ませて宗匠としてスタートを切ったのよ。もちろん日本橋小田原町の借家に俳諧師の看板を出してね。当時、日本橋は市中経済の中心地で、俳諧の愛好者である富裕な町人が多く住んで、江戸俳壇の中心地だったのよね。3年後の延宝8年には俳諧師桃青(芭蕉)の名は京・大阪にも知られ始めたのよ。ところがビックリ、その年の冬に新開地の深川へ遁世しちゃったのよ。
都区次:それにしても芭蕉は突然的に安定した日本橋の生活を捨てて、深川に遁世したのはどんな理由ですか?
江戸璃:芭蕉の研究者の見解にも、もっともと思うものから半信半疑なものまであって、はっきり分ってないけれど、「市中の喧騒と、不特定多数の顧客を対象とした俳諧師生活の俗臭に耐えかねた」ということが一つと「戦乱の世が終り、中世の『侘び』『寂び』の美意識が復興してきて、芭蕉は、これだと思って研究のために深川に遁世した」というのがスタンダードなところらしいわよ。
芭蕉稲荷










遅日果つ芭蕉稲荷の赤鳥居  長屋璃子(ながやるりこ)
初午の芭蕉稲荷を灯しけり  山尾かづひろ