2011年11月13日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(45)

柴又界隈/江戸川河川敷
文 : 山尾かづひろ   
江戸川河川敷











都区次(とくじ): それでは帝釈天より江戸川の河川敷へ行ってみましょう。ここには水原秋桜子の「葛飾や桃の籬(まがき)も水田(みずた)べり」の句碑があります。秋桜子とこの界隈の関係は何ですか?
江戸璃(えどり): 秋桜子は明治25年の東京の神田生れで、子供のころから葛飾界隈に何度も行ったことがあって、この辺りをよく知っていたのね。当時は、東京都葛飾区はまだ水郷の雰囲気が残っている田園地帯だったのよ。この句は秋桜子が昭和5年、38歳のときに第一句集 『葛飾』 を刊行して、その中に納めた一句なのよ。句の伝えるところは、桃が咲くころで、田んぼはまだ田植えの前で、農家の垣根の桃が華やかに満開となり、横にある田植え前の水田の水面にその桃の花が映えている、という意味なのよ。この句集を刊行したときは、一度も葛飾に行かずに昔の景色を思い出しながら俳句を作ったそうよ。
都区次: この江戸川ですが、自然の川というより作ったような川ですね。
江戸璃:そうなのよ。これは徳川家康の利根川東遷事業と関係があってね。元々利根川は江戸川とともに江戸湾に注いでいたのよ。それを千葉県の銚子から太平洋に注ぐように徳川家康が瀬替したのよ。そのとき江戸川に利根川の水の一部を流すために開削したのよ。
都区次:利根川を瀬替した理由は何ですか?
江戸璃:三つあってね。一つ目は、この旧利根川が江戸に洪水をもたらして大変だったからよ。二つ目は新田開発のためね。三つ目は東北と関東の船運を発展させるためね。これが江戸川の開削にも関係あるのよ。
都区次: これは意味が分りませんね。東北の青森、仙台は海で江戸まで続いているではありませんか?
江戸璃:ところが「ギッチョンチョン」房総沖は太平洋の荒波をもろに受けて、水夫(かこ)もそんじょそこらの腕では危険が多くて航行できなかったのよ。瀬替後は東北の米を三百石積の弁才船(べんざいせん)で銚子まで運び、銚子より高瀬舟で新しい利根川を上って千葉県野田市の関宿まで運び、関宿から江戸川を下って江戸まで運んだのよ。関宿には利根川から江戸川への水量を調整する水門が今でもあって、水原秋桜子は句集『葛飾』の中に関宿で作った「利根川のふるきみなとの蓮(はちす)かな」という句を納めているわよ。
都区次:なるほどよく分かりました。江戸璃さん、まだ何か言いたげな御顔ですが?
江戸璃:先ほどの銚子で荷を降ろした弁才船は東北へ帰るときに生活物資を積んで行ったのね。それで江戸川べりには問屋や醸造元が出来たのよ。25歳の小林一茶は馬橋村の油商人で俳人だった大川立砂の下で働き俳句の薫陶も受けたそうよ。また流山の味醂醸造元の主人で俳人だった秋元双樹と親交があったというのも有名な話よね。
関宿城










夕東風や己小さき河川敷 長屋璃子(ながやるりこ)
対岸は千葉と指さす春コート  山尾かづひろ