2011年12月18日日曜日

尾鷲歳時記(47)

ガラスの中のクリスマス
内山思考

空間に遅れて入る冬の猫  思考 

いつからあるか解らない、
と妻が言う陶器の置物













五十数年前の思い出。 幼稚園から息を切らせて帰って来た僕は、母にこう告げた。「お母(か)ちゃん、今日、げた箱にこんな物(ん)入っとった」 それは確か色紙(いろがみ)だったような気がする。 生まれて初めてのクリスマス・プレゼントを突き出して、僕は夢心地だった。「そうか、よかったの」止まらぬお喋りを微笑みながら聞いている母の顔を今でも覚えている。

その母も年が明けると九十一才、入居させて貰っているグループ・ホームを時折、訪ねて、自分の鼻を指差し「誰?」と問うと、しばらくして 「ア・ウ・ウォ」とベッドの母の口が動く、晴雄、と言っているのだ。僕の本名である。まあ、それさえ忘れなんだらエエわ、といつも笑い、痩せた肩を撫でて帰ってくる。 この季節になると、デパートのクリスマスグッズの中にウォーターボールが並ぶ。

水の入ったガラス玉を逆さまにして戻すと雪が降る、あれである。 どうしても一つ欲しくて、名古屋に買い物に出た時などに売り場を覗くのだが、なかなか意中の品に巡り会わない。僕がイメージしているのは西欧の田舎の一軒家、といった風情のものである。 妻も心得ていて、いろいろ探してくれているようだ。でも、中途半端な買い物はしたくない。本当にそこに敬虔なクリスチャンの一家が住んでいて、寒い冬を暖かい家族愛で耐えている、そんな風景に出会いたい。
今も航海を続ける帆船

ちなみに僕は仏教徒。 ガラスの中の風景と言えば、ボトル・シップもそうである。物理的には限られた空間に閉じ込められていても、見る側の心の内では大海を渡っている。時の海とでも言おうか。そこに惹かれるのだ。 創作する根気は端から無く、欲しい欲しいと願い続けていたら、町内の元漁師さんがある日、オリジナルをプレゼントしてくれた。 万人に幸あれ、メリークリスマス。