隅田川東岸/両国橋
文:山尾かづひろ
広重「両国橋大川ばた」 |
都区次(とくじ): それでは両国橋へ行きましょう。
江戸璃(えどり):先に行った回向院の明暦の大火の焼死者を葬った話は覚えているわね。この橋の架橋も明暦の大火に関係があるのよ。明暦3年(1657)の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人と伝えられる死傷者を出してしまったのね。幕府は敵襲防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかったのね。しかし事態を重く見て防火・防災目的のために架橋を決断したのよ。架橋後は本所・深川方面が発展して市街地が拡大したのね。また橋の周囲は火除地としての役割が大きかったのよ。
都区次:お話を聞きますと、両国橋は隅田川への2番目の架橋ということですが、1番目の千住大橋はどういう訳で架けられたのですか?
江戸璃:千住大橋は徳川家康が江戸入府して間もなくの文禄3年(1594)に架橋されているのね。これは私の推理なのだけれど、日光への参拝のためなのよ。家康はブレーンの天海僧正のアドバイスによって日光へ遺骨を埋葬するように、という遺言を残しているのね。アドバイスの内容は長くなるからここでは言えないけれど、千住大橋の架橋に繋がるものであることは間違いない筈よ。
都区次:前回の回向院の話で、赤穂浪士は両国橋を渡らずに川下の永代橋を渡って泉岳寺へ行った。とのことですが訳は何ですか?
江戸璃:確かに本所から泉岳寺に行くには隅田川を両国橋で渡って江戸の市中に入るのが一般的なのよ。ところがそのコースは武家屋敷街を通るのね。さらに十五日は大名・旗本の登城日だったね。不測のトラブルを懸念した大石内蔵助は、両国橋を渡らず、そのまま隅田川を南下して町人の街を行くコースをとったのよ。そして、永代橋で隅田川を渡って市中に入り、霊岸島から鉄砲洲に出て、潮留橋、金杉橋を通り、泉岳寺へと向かった訳よ。というわけで次回は永代橋へ行くわよ。
両国橋 |
大銀杏結へぬ漢に時雨来る 長屋璃子(ながやるりこ)
十二月ゆっくり筏曳かれゆく 山尾かづひろ