2011年12月25日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(51)

隅田川東岸/永代橋 
文 : 山尾かづひろ 

広重の「東都永代橋佃島」










都区次(とくじ): それでは両国橋の東詰から歩いて永代橋へ行きましょう。永代橋の由来は何ですか?
江戸璃(えどり): 江戸幕府5代将軍徳川綱吉の50歳を祝して元禄11年8月に架橋されたのよ。架橋には上野寛永寺の根本中堂(こんぽんちゅうどう)の余材を使ったと言われているわね。
都区次: この永代橋は隅田川の架橋では何番目ですか?
江戸璃: 4番目よ。ついでに言うと、1番目が千住大橋、2番目が両国橋、3番目が新大橋よ。
都区次: 場所的に言うと隅田川のどの辺りですか?
江戸璃: 当時は隅田川の最も下流にあったのよ。広重の「東都永代橋佃島」を見ても分かるとおり千石船の入る江戸湊(みなと)に近くて、多数の廻船が通るので橋脚は満潮時でも3メートル以上あり、当時としては最大規模の大橋だったのよ。橋の上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしがよかったそうよ。
都区次: 「討入り」の話ですが、赤穂浪士は仇討報告のために泉岳寺へ行きましたが、武家屋敷街を通る両国橋コースをやめて、町人街の多い永代橋を渡るコースで泉岳寺に行ったそうですが、どんな訳があったのですか?
江戸璃:両国橋を渡らなかったのは橋奉行・服部彦七の役目上の渡橋拒否を受けたからだ、という説があってね、「本所松坂町公園」に錦絵もあるけれど、私はちょっと疑問なのよね。両国橋には番屋は有ったでしょうけど、江戸中の橋はたくさんあってね、奉行や同心を一々張り付けておくだけの人数はいなかったのよ。仕方なく同心が身銭で雇った小者を橋番屋に置いておいた筈なのよ。さて、両国橋か永代橋かの話だけれど、町人街は「討入り」を、よくやった「やんや」と言ってくれるけど、この「討入り」は無届の仇討ちだから武家屋敷街の場合、外様大名の中には幕府に「ゴマ」をすって取り押さえにくるのがいない、とも限らないじゃない?進路変更はその辺にあったと私は思うのよ。

夜の永代橋












極月や永代橋のシルエット 長屋璃子(ながやるりこ)
煤逃げの漢(やから)満載釣の船 山尾かづひろ