2012年2月12日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(58)

隅田川西岸/橋場(はしば) 
文:山尾かづひろ 


平賀源内の墓所
 













都区次(とくじ): 前回まで隅田川七福神詣ということで隅田川東岸を廻っていましたが、今回は対岸の隅田川西岸を廻ってみたいと思います。初めての方にもわかるように最寄りの駅から歩いていただけますか。
江戸璃(えどり): 東武伊勢崎線の「東向島」で下車したら矢印に従って向島百花園を経て、さらに白鬚神社を経て白鬚橋を渡ってちょうだいね。番地は墨田区から台東区にかわって、この辺は「橋場」というのね。「橋場」の名前は源頼朝が安房(あわ)から府中へ向ったとき、江戸太郎重長が数多の船を連ねて船橋としたことから付けられた名だそうよ。この川幅に船を連ねたのだから驚きよね。白鬚橋の付近には律令時代から「橋場の渡し」があったのね。橋場はその歴史的な土地柄から江戸時代になって風流な場所とされ、大名や豪商の別荘が隅田川河岸に並んでいたというのね。そのため明治期に入ってからも屋敷が建ち並んでいてね、明治維新の元勲三条実美の対鷗荘に、征韓論の議論に疲れ、病に臥していた三条実美を明治天皇が見舞ったという記念碑が残されているわよ。
都区次: この辺には江戸時代の本草学者で科学者で戯作者でもあった平賀源内の墓があるそうですね。
江戸璃: 明治通りの白鬚橋西詰付近には、「史跡平賀源内先生之墓」とある石碑があって、明治通りから路地を南に一つ入ったところに築地塀で囲われた平賀源内の墓所があるわよ。墓所のあった総泉寺は関東大震災で破壊され板橋区小豆沢に移転したのね。ところが、どうしたことか平賀源内の墓は昔の場所に残されているのね。墓は昭和18年(1943年)に国の史跡に指定されたのよ。ここで雑学を一つ、「土用のうなぎ」は、平賀源内が、商売不振なうなぎ屋さんのために「本日土用丑の日」という看板を店先に出したことから始まったのよ。ところが“驚き桃の木山椒の木”平賀源内が「夏バテにはうなぎがいい」とか言うものだから、「土用のうなぎ」は大盛況。その後、日本の風習のひとつになったというのね。
平賀源内の墓









源内の墓春寒に囲まるる   長屋璃子(ながやるりこ)
源内の墓は残され忘れ雪   山尾かづひろ