2012年2月19日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(59)

隅田川西岸/今戸(いまど) 
文:山尾かづひろ
 

広重の
「隅田川橋場の渡し かわら窯」



















都区次(とくじ): 橋場の南側は今戸となりますが、「今戸」の名はどこから来ているのですか?
江戸璃(えどり):白鬚橋の上流の西岸の石浜神社辺りには港があってね、それに対して白鬚橋の下流のこの辺りは、新しい(今)港(津)として「今津」と呼ばれていたものが訛って「今戸」になったそうなのよ。
都区次:この「今戸」で有名なものは何ですか?
江戸璃:広重の「隅田川橋場の渡し かわら窯」の絵を見てもらうと、煙が上がっているけれど「今戸焼」の窯場なのよ。現在では店屋の玄関先でよく見る「招き猫」で有名よね。
都区次:この「今戸焼」は元から隅田川地区にあったのですか?
江戸璃:陶土はこの辺で産出する「今戸土」を使って、天正頃(1573~1592)に下総千葉家の一族の配下の者が武蔵の浅草辺りで土器や瓦を造りだしたのが始まりなのよ。その後、徳川家康が江戸入府に際し、三河から二人の土風炉(茶道で湯を沸かす火鉢)師と土器師を連れて来て焼き物を焼かせ、やがて幕府御用の土器や土風炉を造って有名になったそうよ。この辺りは「今戸焼」発祥の地で、今は500年続く店がただ一つ細々と伝統を守っているけど、注文を捌ききれないほどの人気があるそうよ。近くの今戸神社には大きな「招き猫」が奉納してあるわよ。また、この今戸神社には新撰組の沖田総司の終焉の地の標識もあるのよ。沖田総司は慶応4年(1868)肺結核に冒され、28歳でこの世を去ったのよ。
都区次:今戸神社を出てすぐに見える「今戸橋」と刻まれた碑は何ですか?
江戸璃:昔の山谷堀にかかっていた今戸橋の親柱が今も姿をとどめているのよ。山谷堀は8丁(846メートル)あって、吉原への遊客は猪牙船を飛ばして山谷堀を往復していたけれど、今は埋め立てられて往時を偲ぶべくもないわね。
都区次:今戸橋の南側の小山は待乳山聖天ですか?半年ほど前の27回目の時にも来ましたね。
江戸璃:そうね。今回は散策の無事の御礼に寄って行きましょう。この待乳山聖天には江戸前期の歌人・戸田茂睡(とだもすい)の歌碑があるのね。茂睡は一方で「紫の一本(むらさきのひともと)」という江戸の名所旧跡を山・坂・川・池に分類した観光案内書を上梓していてね。私はゆっくりと読みたいと思っているのよ。また、待乳山聖天には江戸の世の築地塀が残されていて、一見の価値があるわよ。












料峭や江戸の名残りのついぢ塀 長屋璃子(ながやるりこ)
絵付けする今戸焼きとや春時雨 山尾かづひろ