2011年2月6日日曜日

尾鷲歳時記(5)

ヤブツバキ 
 内山思考

ヤブツバキ
 下萌や靴裏になき土踏まず      思考

 尾鷲(おわせ)の町を南北に挟んでいるのが八鬼山(やきやま)と天狗倉山(てんぐらさん)である。
 恐ろしげな名が示す通り、このあたりは熊野参詣路の中でも難所とされ、ことに八鬼山は次の里の名柄(ながら)まで道中が長く、山賊や狼が出没したといわれる。

 しかし、町のシンボル的存在はというと、やはり天狗倉山だろう。頂上に大岩があってそこからの眺めは絶景である。尾鷲歳時記(2)に掲載した写真、公園の向こうにそびえるのが天狗倉山で、(1)の写真が大岩に立って見た景観である。

左:便石山、右:天狗倉山

 僕の家は天狗倉山の麓にあるので、年に二回ほど思いついて登る。標高五二二メートルなので往復二時間ほどだ。ほとんど何も持たない。この山の肩あたりは馬越峠(まごせとうげ)といって熊野古道散策のハイカーが垢抜けた装備でよく越えて来る。杖なども立派な物を突いているが、よほどの荷が無い限り手ぶらの方がよい。ダラリと垂らしている方が手は疲れないのだ。

 春は名のみの風の冷たい頃だと、石だたみの傍らに市の花であるヤブツバキなどがポツンと真紅に点(とも)っていて趣がある。
 馬越峠から頂上までの勾配はかなりきつくだんだん脚が上がらなくなるが、頭上を仰ぐと、暗い木立の奥に大岩の黒いうしろ姿が見えてくる。
 もう少しだ。走り根をつかみ中腰の四つん這いで荒い息を吐いて登り切る。
 その瞬間、
 目の前が一気に明るくなり、眺望が拡がる。眼福とはまさにこのことだろう。

 いつだったか、頂上の真下でふと、和田悟朗さんが若い頃、無人の三輪山を全裸で登った話を思い出し、よし自分もそれをやってやろう、と決心した。
 幸い、後を追って来る者もいないようだ。
 天地の間に原始の人類の姿をさらそう、と大いに意気込んで頂上の大岩に立ったまではよかったが、尾鷲の全景が自分を見上げているような気がして、結局、何も出来なかった。
(写真・思考、青木三明)