2011年2月6日日曜日

永田耕衣 × 土方巽(5)

大畑  等


「風だるま」
―後から手紙(ことば)が来る



   妄想の足袋百間を歩きけり  耕衣                
                (『與奪鈔』) 

土方の講演「風だるま」は彼の舞踏論だけにとどまるものではない、言語の問題にも及ぶ宝庫である。1960年代は「肉体と言語」をテーマに、いろんな雑誌が企画した。しかし詩人たちは、このテーマを恐る恐る語った。私は、今読み返しても、そういう印象をもっている。言葉と肉体をつなぐ回路を見いだせていないのだ。

土方巽

 










―(前略)ところがその風だるまは自分の体を風葬してる、魂を。風葬と火葬だ、それがいっしょくたになって何とかして叫ぼうと思うけれども、その声は風の哭き声と混ざっちゃうんですね。風だるまが叫んでいるんだか、風が哭いてるのか混ざっちゃって、ムクムクと大きくなっちゃって、やっと私の玄関にたどりついたのです。どんな思いでたどり着いたのか?今喋った坊さんの話と風だるまが合体して、そこに非常に妖しい風だるまの有様がひそんでいるのです。風だるまは座敷にあがって来ても、余り物を喋らない。囲炉裏端にベッと座っている。そうすると家の者が炭を、これもまた何も聞かないで、長いこと継いでいるんですね、私は子供の時にそういう人を見て、何と不思議なんだろう、何となく薄気味悪いけど親しみが持てないわけでもないし、一体何が起こったんだろうかと思いました。するとこういうことがあるでしょう。最初に荷物がチッキで届いて後から手紙が来る、そんなふうに自分の身の上に起こったことを、喋るんですよ、雪だるまは。
おーおーてーはー。
(ああ、「おおっ」てあんたが叫んだんだね。)
ビュービュー。
(ああ、びゅーびゅーって風吹いてたのか。)
 すると「おーおーて」、「びゅーびゅーてー」、「はー」と、そこでそのうちわけがちょっとわかるわけですね、どんなにひどかったのか、そしてその顔は何か、死んだ後の異界をのぞいて来た顔なんですね。お面みたいになってるわけです。生身の身体でもないし、虚構を表現するために、物語を語るために、何かの役に扮しているのでもなくて、身体がその場で再生されて、生きた身体の中に棲んでしまった人なんです。ところが雪ダルマにもいろいろあります。これはまだいい方です。一緒に入って来るのがいるんですね。
おーおーてビュービューってェー
と言って入って来る。(下線は大畑)※3


長い引用となったのは、土方の指先の動きのような語りの細部を、共有したかったからだ。さて私が線を引いた「坊さんの話」とは『日本霊異記』の景戒(きょうかい)が書いた夢のことである。夢の中で景戒は、自分が、死んだ自分の身を焼いた。小枝を折ったり、串刺しにしてひっくり返す。体がみんな焼かれて、回りで焼いている人に、このように焼きなさいと教えるのだが、聞こえない。それで景戒は「死んだ人の魂は声がないから、私の声は聞こえないのだろう」と思うと書いてある。

土方はこの景戒の話をして直ぐに、「ところがちょっと待てよ、それはちょっとおかしいぞ?」、「夢を見ている最中の話じゃなくて、夢から覚めて字にしたもので、こんなにさっさとかけるわけがない」と話す。私たちには決しておかしくないのだが、土方は土方の舞踏で景戒を読むものだから、「おかしいぞ」となる。土方の書き方(舞踏)では、自分が自分の死体を焼きつつ書かねばならないのだ。「風だるま」のように。

自分が自分の死体を焼く景戒、そういう景戒が再生されなければならない。そういう景戒に棲まわれてたしまった生きた身体が舞踏の肉体ということだ。つまり、

私とは私と肉体の私である  ―土方巽

ここで言う「肉体の私」とは「風だるま」のような肉体、あるものに棲みこまれてしまった肉体である。

―私の身体のなかで死んだ身振り、それをもう一回死なせてみたい。死んだ人をまるで死んでいる様にもう一回やらせてみたい、ということなんですね。一度死んだ人が私の身体の中で何度死んでもいい。それにですね、私が死を知らなくたってあっちが私を知っているからね。※3

「あっちが私を知っているからね」というあっちとは「死」の側は勿論、「肉体の私」も指しているようだ。しかし「肉体の私」は言語を獲得すると、肉体の闇のうちに没せられる。言語はまず他者(主に母親)から授けられる。このコミュニケーションがあって後、言語は自分自身に何かを伝える手段であることが重要になる。永井均はヴィトゲンシュタインに反して「私的言語が可能でなければ言語は不可能」だと言う。ここで「私」が芽生える。しかし私的言語は他者には公的言語で語られる。何が起こるか、

―公的言語の意味の働き方に乗らなければ語れないので、言わんとすることが言えない――言わんとしていることとは別の「正しい」ことが言われてしまう――※10

 
これが景戒の言葉(であり私たちの日常の言葉)である。言葉は生命が抜かれて言葉である、と言われる。「腹が痛い」、この私の直接体験、ありありとした意識にもかかわらず、他人から「どのように痛いのか?」と問われても、言葉で伝える術はない。最後は沈黙することになる。又は、ほどほどのところで切り上げて、まるで問いと答えがなかったかような、事態には全く意味のない行為でその場をとり繕う。まさに意識とは、「言語が初発に裏切るこのものの名であり、にもかかわらず同時に、別の意味では、まさにその裏切りによって作られる当のものの名でもある」。※10

「自分の肉体の闇をむしって食ってみろ」という土方は、言葉においても闇に向かい、そしてむしって食っているように思える。吉本隆明は「舞踏論」で、

―わたしはかれの舞踏をみたことはないが、言葉をみれば舞踏をみたとおなじことになる。※11

と書く。上記は、「身体と言葉のあいだで同一の暗喩にしてしまっている」と語ることのできる視座(まさにハイ・イメージ)からのものであろうが、今は土方の言葉に当たることにする。「風だるま」では、

「泥を足の裏で吸い上げる話」、「柔らかなじょならっ(傍点)としたセンベイを食べる話」、「自分の手に物を食わしたりしている幼児の話」、「指物師の手が鉋に見える話」、「自分の脹ら脛に部屋の外の景色を見せようとする話」、「柄杓を可愛そうだと思い、畑の中へ柄杓を置く話」、「空っ箱、ふいごになった柳行李になって内臓を一切合切表へ追い払って遊んだ話」、「馬を鋸で挽く話」、「川を凍らせて持ってくる話」を土方は延々と語る。

土方の語りのなかで「もの」はいつもこの世界とは異なる相をみせる。固いものは湿って柔らかくなり、逆に柔らかいもの、流れるものは凝固してあらわれる。

―空だってそうです。あれだって一枚の皿だと思えば叩き割ることができるんです。あんな一枚の皿、人皿でしょ、あれを叩き割れば何か騒動が起きるかもしれない。そういうふうな妄想ともつかない肉体の拡張が、どんどんどんどん広がってゆく。※3

「人皿」と語る土方の不思議な造語。それでも土方の語りを荒唐無稽と思わないのは、土方の言葉に肉体の意味作用を強く感じるからだろう。土方の言葉も、また舞踏しているということだ。

私はときどき、自分の耳から内臓がぐにゅぐにゅと出てくる感覚を経験する(A)。栄螺を食べるとき、フォークで突き刺し、内臓ごと巻きながら取り出す(B)ことがもととなっているのかも知れない。身体で感覚するAは、Bの直喩、つまりBのように、と言うことができるからだ。しかしAの意味するものを言葉で表すのは難しい。

「肉体の拡張」、それは舞踏するということだ。土方の「内臓を一切合切表へ追い払って」というイメージは土方の肉体が裏返る、表皮が内に潜り込み、内臓が表にめくれあがってくるイメージ、そう反転のイメージである。

土方の眼球や腕がずるずると「もの」に伸びて行き、土方の肉体と「もの」が食い入る。主客一体となった「かたつむり」があらわれる。

 かたつむりつるめば肉の食い入るや 『驢鳴集』

「自分の腕が自分の腕でないように感じ取る、ここに重要な秘密が隠されているんです。舞踏の根幹が秘められている(※ 3  )」。この耕衣の句を読む土方は「かたつむり」になっているに違いない。

「肉体の拡張」・・・・、固い物はぐにゃっとなる、空は一枚の皿に、水は固まって計られるものになる。

 秋の暮杓無くば水長からん  『闌位』

また、この「風だるま」で土方はこう話す。

―この話は後からするけどおそらく時間がなくなるでしょう。いや、なくなりますよ。※3

二度目の「なくなる」では時間が固体になっている、きっとそうに違いない。

 百合剪るや跳ぶ矢の如く静止して 『吹毛集』
 時間から落ちて遊ぶや夏雀    『物質』


耕衣もまた舞踏している。

 (続く)


※ 3  『土方巽全集Ⅱ』・河出書房新社 講演「風だるま」より
※10『なぜ意識は実在しないのか』 永井均 岩波書店刊より
※11『ハイ・イメージ論Ⅲ』「舞踏論」吉本隆明 筑摩書房より